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本間忠良 衝撃の新刊 知的財産権と独占禁止法−−反独占の思想と戦略

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経済法あてはめ演習60選(日本語)Antimonopoly Act  Exercise 60 Cases

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論文とエッセイ(日本語)Theses and Essays

 

 

危機と破局−−米欧農業紛争にみる冷戦ゲームの止揚

松田編『流動する国際関係の法』(国際書院、1997年8月)、pp. 29-58

本間忠良

目次

1.はじめに
2.1989年以前・・CAPと油糧種子
3.1990年・・「War of Words」
4.1991年・・CAP改革の難航と油糧種子問題の危機化
5.1992年・・「力」の対決
6.1993年・・通商戦に勝者なし
7.おわりに

参照文献

1.はじめに

 1987年初にはじまり、4年間の予定を大幅に超過して、結局7年がかり1993年末に決着した多角的貿易交渉ウルグアイ・ラウンド交渉諸分野のうち、最も難航したのが農業交渉、とくに米国・EC間のそれだった。

 本稿は、この複雑をきわめたウルグアイ・ラウンド米欧農業交渉を、双方の交渉戦略に焦点をあててミクロに観察し、ここで米国が採用したいわゆる冷戦型の「力の論理」が、表面的にはいちおう成功したものの、結果的には、それ自身を否定するあたらしい「法の支配」レジームを生み出してしまった過程を記述しようとするものである。

 事実に関する情報源としては、主としてInternational Trade Repoter (ITR)とInside U. S. Trade (IUST)によった。いずれも米国で発行されているニューズレター(週刊)で、誤報や偏向は論外としても、両誌に対する米欧当局からの意図的リークが考えられるため、情報量の多さを利用して、情報間の相互吟味をこころがけたつもりである。

2.1989年以前・・CAPと油糧種子

 1970年代までは、世界の食糧問題といえば飢餓、そしてその原因としての生産不足が中心課題だった。かかる状況下で、農産品は、規定上は、関税と貿易に関する一般協定(GATT)の対象だったにもかかわらず、前回の東京ラウンド(1974〜79)までは、ほとんど多角的交渉の対象になっていなかった。

 しかるに、1980年代にはいると、飢餓の原因が、生産不足よりもむしろ通商面にあることがわかってきた。世界の食糧生産はすくなくとも中期的には過剰傾向にあるのだが、食糧が、それを必要とするところへ、支払い可能な価格で、必要量だけ、まわってゆかないのである。

 一方、ECでは、戦争世代の飢餓体験が作りだし、EC創設以来改正を重ねながら連綿として続いてきた共通農業政策(CAP)が、域内生産量の増大とともに、大きな財政負担と化していた(Strating 323)。

 CAPの思想は、端的にいえば、域内農産品価格を世界価格の変動から隔離することにあった。ECは、毎年、品目ごとに設定する「目標価格」を、1)可変輸入課徴金(国境措置)、2)買い上げによる価格介入(国内支持)、3)輸出払戻金(補助金)によって維持するという手法をとっていた。

 国内支持は生産奨励的性格が強かったため、EC内では森林の農地化・化学肥料依存による環境破壊をもたらし、同時に、余剰農産物が輸出補助金つきで海外市場に大量に輸出されて、これに対抗する米国の補助金つき輸出とともに、世界の農業市場をおおきく歪曲していた(Gleckler 326/Basil 741/Schoenbaum 1167)。米欧補助金戦争の現実の被害者はケアンズ・グループだった(Coffey 41)が、潜在的な被害者は、未来世界の食糧供給源として期待されていた熱帯諸国だった(Basil 742)。

 CAP1988年改革の目玉だった減反(セット・アサイド)も3年で2%にとどまり、1991年には、買い上げた牛肉のストックが史上最高に達し、バター、ミルク、穀物のストックも急増しつつあった(ITR 8-115)。

 一方、総人口に対する農民人口比は1960年の21%から1986年の8%へ、GDPに占める農業生産高比は1970年の5.4%から1989年の3.4%へと、いずれもマイノリティ化しつつあったにもかかわらず、1990年時点では、EC総予算5兆円余の3分の2が農業に投入され、その3分の1が輸出補助金というありさまだった(ITR 8-1510/9-190)。

 また、予算の80%が人口比20%の大規模農民に分配されており、農民一人あたりの平均収入は減少傾向にあった。さらに、1986年、スペイン、ポルトガル加盟で農民人口が一気に50%増え、猶予期間が終わる1994年以後、これがフルにCAPを受益することになるという、まさに爆発寸前の状況にあった(Jensen 1710)。

 米欧農業紛争の歴史は古い。下は冒頭のいわゆる「米欧チキン戦争」だけが米国1962年通商拡大法252条、あとは米国1974年通商法301条による米国での行政調査事件である(出典・・ ITRより編集)。

 冷凍チキン関税:63年、ECの冷凍チキン輸入関税引上げに対して米報復。

 鶏卵輸入課徴金:75年8月提訴、EC課徴金を関税化、80年7月調査終結。

 缶詰果物最低輸入価格制:75年9月提訴、GATT提訴、EC妥協、79年1月調査終結。

 モルト補助金:75年11月提訴、補助金減額により80年6月調査終結。

 缶詰果物添加砂糖可変課徴金:76年3月提訴、79年7月合意、80年6月調査終結。

 家畜飼料混合条件:76年3月提訴、GATT提訴、EC条件撤廃、79年1月調査終結。

 柑橘関税差別:76年11月提訴、政府間協議不調、82年11月GATTパネル設置、EC裁定ブロック、85年6月大統領クロ決定、米国対ECパスタ報復関税、EC対米柑橘逆報復関税、86年8月協定成立、88年包括通商法で決着。

 小麦粉輸出補助金:78年11月提訴、GATT提訴、パネル不決断、米対抗補助金、政府間監視合意、80年8月調査終結、ウルグアイ・ラウンド(「UR」)へ移行。

 砂糖補助金:81年8月提訴、87年7月再提訴あるも通商代表拒否、URへ移行。

 鶏肉補助金:81年9月提訴、83年11月補助金コード委員会調停、URへ移行。

 パスタ補助金:81年10月提訴、82年3月補助金コード委員会調停付託、82年7月パネル設置、83年1月パネル事実のみ報告。85年、86年ECの柑橘関税に対抗してパスタ関税引上げ、ECレモン等逆報復(前出)。86年8月協定成立(関税相互引き下げ)、87年9月大統領布告(パスタ輸入にUSTR認証要求)。

 缶詰果物補助金:81年10月提訴、ECパネル遅延、大統領報復指令、EC合意。

 スペイン・ポルトガル・ブラジル大豆油等補助金:83年4月提訴、83年5月以後逐次調査開始、政府間協議の後、大統領指示でGATT補助金協定協議、URへ移行。

 EC拡大輸入障壁:86年3月職権開始、ポルトガル(油種、穀物数量制限)・スペイン(とうもろこし可変課徴金)のEC加盟に伴う輸入制限、86年5月対EC輸入割当て、86年7月スペインにつき一部補償協定成立するも不満。86年12月EC農産品輸入に対する200%関税で威嚇、87年1月ECバインディング両国に適用合意、米国措置中断、90年11月職権再開、90年12月GATT譲許停止通告、90年12月協定成立により調査終結。

 第三国畜肉差別:87年7月提訴、政府間協議不調、米国GATTパネル要求に対し87年12月EC同意、障壁軽減中、URへ移行。92年10月調査終結。

 ホルモン畜肉技術障壁:87年11月職権開始、ECホルモン畜肉指令に対し、大統領1億ドル関税引上げで威嚇、87年12月関税引上げ決定と同時に実施猶予、USTRに権限委譲、89年1月EC指令実施、100%報復関税、89年5月障壁緩和、89年12月報復緩和、残存障壁URへ移行。

 油糧種子関税補助金:後述。

 缶詰果物補助金:89年5月職権開始、EC補助金軽減協定不遵守、89年6月報復公聴会、EC補助金引下げ、URへ移行。

 今回の米欧油糧種子・CAP紛争は、これらもろもろの個別紛争の総決算という歴史的意義を持つ。国際通商における「戦後」という重いくびきから抜け出して、「米欧とも、これらの資源をハイテク部門にふり向け、対日競争力を向上させる必要がある」(Coffey 41)というあたりが本音か。

 ウルグアイ・ラウンドをスタートさせた1986年9月のプンタデルエステ閣僚会議では、米国が農産品貿易自由化交渉を提案、しぶるECをケアンズ・グループとの連携でおさえこむという一幕があった。ちなみに、食糧輸出国の連合であるケアンズ・グループ(オーストラリア、ニュージーランド、アルゼンチン、ブラジル、カナダ、チリー、コロンビア、ハンガリー、インドネシア、マレーシア、フィリッピン、タイ、ウルグアイ、フィジー)は、今回の米欧農業紛争では、ほとんどつねに米国側に立って行動する。

 油糧種子(大豆、綿花種子、ひまわり種子、菜種)については、実は、1962年、ディロン・ラウンドの際、当時まだ圧倒的に食糧輸入圏だったECが、輸入関税ゼロ・バインディングに同意しており、世界市場では米国が圧倒的なマーケット・シェアを占めていた。しかるに、1980年、ECは、搾油業者に対して、域内産の油糧種子にかぎって補助金を与える政策に転じ、その結果、米国からの輸入が1982年から86年で40%減少した(ITR 8-562)。

 1987年12月米国大豆協会提訴で米国通商法301条調査、GATT提訴、89年11月GATTパネル報告(EC側に差別およびGATT利益の無効化・侵害の事実あり)を翌90年1月ECが受諾、いったん決着がついたかに見えた。事実、油糧種子問題は、以後、91年中期まで通商問題の表面には出てこない。これが92年になってとつぜん危機化する。

3.1990年・・「War of Words」

 予定ではウルグアイ・ラウンド最終年になるはずだった1990年前半は、ECによる油糧種子パネル裁定受諾(1月)と、それにともなう米国通商法301条調査終結(2月)に象徴されるように、米欧農業紛争は小康状態にあった。また、パネル裁定実施に対しては、米国も一定の猶予期間を認めていた(1991年実施を要求)(ITR 7-5)。ECもウルグアイ・ラウンド合意にふくめて裁定を実施すると言明しており、90年末までは、双方とも、ラウンドの成功に期待をかけていたのである。

 7月、ヒューストンG7サミットは、「市場指向型の農業貿易システムの確立」とともに、「国内市場レジーム、市場アクセス、輸出補助金をふくむ農業保護の実質的かつ段階的削減」を宣言、米欧農業紛争の底にある「思想的な相違(ITR 7-5/6)」について米国側に軍配を上げた(ITR 7-1092)。

 10月、対ウルグアイ・ラウンドEC修正提案の委員会案(マクシャリ農業委員作成)がEC農相理事会に提出された。マクシャリ案は、国内支持を10年で30%カット(1986年基準なので、すでに15%カットずみ)、国境措置の関税化を受け入れるかわりに油糧種子を中心とするリバランシング(従来のゼロ・バインディングを6〜12%関税に変更)をおこなうというものであるが、輸出補助金については直接コミットせず、CAPのメカニズム上、輸入関税を超えることはなく、国内支持の削減にともなって必然的に減額する(数値化も可能)という、あいまいな補足説明にとどまった(ITR 7-1532)。

 EC農相理事会では、イギリス、オランダ、デンマークが賛成、ドイツとフランスが反対という対立図式で、今回の紛争が実は西欧アグリビジネスの問題だったということを示唆している。南欧の国内支持は、のちにウルグアイ・ラウンドでも認められることになる「グリーン・ボックス」の生活保護タイプが主である。マクシャリは、ドイツやフランスの農民を宥和するための「生産中立的支持」の構想を持っていたのだが、米国につけこまれることをおそれて発表できず、手詰まりにおちいっていたらしい(ITR 7-1607)。透明外交の良し悪しであろう。

 今回の農業通商紛争の根の深さを示す関係者発言をいくつかあげよう。EC議会農業委員会「多数の家族経営農家という欧州農業の基本構造を保護」(ITR 7-1467)。ドイツ農相「欧州農業の70%の没落とGATT決裂のどちらかというなら、私は後者を選ぶだろう」(ITR 7-1532)。ヤイター米農務長官「米欧間に思想的相違がある」(ITR 7-6 )。ヒルズ米通商代表「交渉は思想的デッドロック状態にある」(2度)(ITR 7-5/1466)。サッチャー英首相「本件には米欧関係の評判がかかっている」(ITR 7-1636)。

 EC案は、10月15日の締切りをはるかにすぎ、その間ローマでのEC首脳会談を経由してもまとまらず、他国もEC待ちの態勢になったが、この間、米国は、問題は7月のヒューストン・サミットで決着ずみとくりかえし言明、ECに圧力をかけつづける。

 ケアンズ・グループでは、ECが72時間以内に提案を出さなければウルグアイ・ラウンド農業交渉をボイコットするという提案が「否決」され、ヒルズ通商代表が、米国が交渉をボイコットすると言った「ことはない」と言明するなど、否定型による破局の脅しが使われだした。米国の比較的おだやかな脅しにくらべて、ケアンズ・グループは「この事態の責任は100%ECにある」とか「ECの無責任のおかげで、4年間の作業が水の泡になる」などとはげしい(ITR 7-1694/5)。

 11月、EC農相理事会は、8回目の会議で、やっと、国内支持30%カットとリバランシングのマクシャリ案を可決した(Daniel 896)。これにくらべると、米国・ケアンズ案ははるかにラジカルで、1)すべての国境措置の関税化とその漸減、2)国内支持75%カット、3)輸出補助金90%カットというものである。

 ブリュッセルでの閣僚レベル会談も、ワシントンでの米欧首脳会談も、このギャップを縮めることはできなかった。これ以後、ウルグアイ・ラウンド閣僚会議まで、米欧双方から、「米国の態度は交渉を毒している」、「Thanks for being frank」、「悪い合意よりは合意がないほうがいい」、「こんな状態では議論はできない」、「レトリックはやめよう」、「いまは war of words の時ではない」、「ECが妥協しなければ米国の報復で補助金戦争は必至」などのとげとげしい発言が報道されている(ITR 7-1774)。

 12月4日ブリュッセルで開催されたウルグアイ・ラウンド閣僚会議では、EC案に対する各国の非難が集中し、EC代表団内部でも緊急修正提案がなされたほどだったが、とくにフランスの決意は堅く、EC案は変わらなかった。

 12月6日、農業委員長(スエーデン農相)が提示した妥協案にも、EC、韓国、日本が同意せず、7日、閣僚会議はすべての交渉アイテムにつき合意に達しないまま閉会した。この日、1万人のEC農民がジュネーヴのGATT本部前をデモ行進した。

 閣僚会議決裂直後の各国発言は、「米国のスチームローラー方式が失敗の原因」、「途上国が敗者」、「途上国不在の紛争」、「ケアンズの脱退提案も空疎な脅しだった」、「米国はもっと現実的になるべきだった」、「米国はECに対して一方的報復措置を発動すべきではない」など、ECに同情的なものが多かった(ITR 7-1876)。

 実は、ちょうどこの1990年末から91年初にかけて、米欧間には、1)EC畜肉指令(EC所定の衛生基準を満たさない屠場からの輸入禁止)、2)米欧拡大欧州補償協定(ちょうど四年間の期限が到来)、3)コーン・グルテン問題(1969年、ケネディ・ラウンドでゼロ・バインディング譲許したコーン・グルテン飼料の定義)に関して紛争があり、GATT提訴や米国通商法301条による報復などの通商危機状態にあったのだが、これらはCAPがらみの米欧農業紛争の本筋からは脇役に位置する紛争であり、両国通商当事者には、これらをウルグアイ・ラウンドから切りはなしてローカルに処理しようとする意図があったようである。

4.1991年・・CAP改革の難航と油糧種子問題の危機化

 1991年は、ラウンド決裂の永久化を懸念した米国が、油糧種子問題を突破口として、難航中のEC・CAP改革に圧力をかけようと決意する年である。

 ECでは、CAPの危機に対処するため、および、「国際社会におけるECの信用を回復するため」(ITR 8-84)、1991年1月、マクシャリ農業委員がCAP改革案を提案した。10項目からなるマクシャリ案の骨子は、1)過剰生産をコントロールする、2)補助金は生産高から農地面積ベースに移行する、3)国際協調にも留意するが、輸入における「Community preference」は維持する・・というものである。マクシャリ案は、左右両極からのはげしい批判を浴びたが、思想的にはマクシャリ案に近い1991年農産品価格パッケージが、5月の農相理事会を通過した(ITR8-820)。

 マクシャリ案は、輸出補助金に触れず、リバランシングを温存する可能性がある点、米国にとっては不満で(七月ヒルズ発言 ITR 8-1975)、これがしばらく休眠していた油糧種子問題に火をつけた。

 油糧種子問題については、5月、米国ヒルズ通商代表、マディガン農務長官が、米国大豆業界のロビイングを受けたかたちで、ECアンドリーセン対外委員、マクシャリ農業委員に面会、はじめて通商法301条による報復の可能性に触れた。これに対して、EC側は、「GATT裁定では猶予期間が認められているし、ECがウルグアイ・ラウンド合意の一環として解決すると言っているのに、米国側が強硬手段をとるならば、ラウンドの動向にも響くおそれがある」(マクシャリ)として、米国を牽制しながらも(ITR 8-623)、10月末までには対策を決定するむね言明した。

 EC当局者は、CAP改革がラウンドとは無関係(外圧ではない)とたびたび言明しており、マクシャリ農業委員は「CAP改革がECの対ラウンド提案変更につながるわけではない」と言って、米国の過大な期待に水をかけようとしている(ITR 8-1028)。

 かかる動きに対して、ECの有力農業団体COPAとCOGECAは、7月、「国内価格と国際価格の二重価格制を保存することこそ農民収入保障のための本筋だ」として、市場主義とはまったくあいいれない思想を固持する姿勢を見せている(ITR 8-1064)。

 一方、米国の農業ロビーもしだいに戦闘的になってくる。米国側の交渉ポジションがよくわかるので、すこし長いが引用してみよう(IUST 9-37)。

 9月12日づけ大統領あてドール上院議員書信「長年の減反のおかげで、わが国は、EC、カナダ、オーストラリアの後塵を拝する補完的小麦輸出国になってしまった。・・共和党は、農民に対して、米国を世界農業の運転者席にすわらせることを公約してきた。・・ECはヤイターやヒルズに対してリップ・サービスを続け、その間、わが国の『攻撃的通商政策』はマンネリ化し、『一方的降伏』と化している」。

 9月9日づけ国務省あてルガー上院議員書信「ある時点で、合衆国はこう言えるようになっていなければばならない。『もうたくさんだ。ラウンドは失敗した。そうでないふりをしても何も得はない』。ECと戦い、ECを世界市場から駆逐するために・・わが国の農業政策を再検討する必要がある。ECが理解できる唯一の言葉は、強力かつ攻撃的な通商政策だ。・・宥和は、かえってウルグアイ・ラウンドの成功を危うくする」。

 12月12日、EC理事会は、委員会が提案した1992年油糧種子新レジームを可決した(理事会規則 3766/91)。規則は、大要、1)国内支持を生産ではなくて農地面積ベースにする、2)加工補助金の原産地差別をなくす・・という内容である。米国は、すでに11月のGATT理事会で、パネル再開を要求している。

 ここで本稿の目的にとって重要な動きがあった。11月初旬、ブッシュ・ドロール、アンドリーセン・ヒルズ、マディガン・マクシャリという3層にわたる会談がおこなわれたが、この過程で、ウルグアイ・ラウンド農業合意と抱き合わせで、通商報復の一方的行使を制限するアイデアがEC側から示され、それが最終的にはWTOによる紛争解決システムの実現へとつながってゆくのである。これの契機が油糧種子問題であった。11月11日づけヒルズあてアンドリーセン書信「ECは、米国議会で、私人からの提訴を認めたり、報復措置を強制発動するような301条改正の動きがあることを注視している。これらは、米国の貿易相手国を通商制裁で脅すことによって、通商上の譲許をせまる不断の圧力として作用する効果がある。GATT裁定の一方的執行を要求する上院決議201号も、GATT紛争解決手続きのあきらかな違反である」。

 一般に、交渉がいわゆるゼロサム型の手詰まりにおちいった場合、交渉のテクニックとして、または交渉の自然のダイナミズムとして、「ゲームのルールについてのゲーム」(いわゆるメタゲーム)にシフト・アップする現象がよく観察される(Fisher)が、それがここでも起こったのである。

 12月20日、ドンケルGATT事務局長がウルグアイ・ラウンド各国代表に配布した「最終協定案」と題するペーパーは、前年末のいわゆるジュネーヴ・テキストのような異論併記ではなく、GATT事務局の調停案に近いものであった。ウルグアイ・ラウンドでは、覇者の後退によって生じた真空のなかで、GATT事務局長の「機能」がおおきくクロースアップされていたのである(Montana-Mora 7)。

 ドンケル・ペーパーの農業編は、1)現存するすべての国境措置を関税化、1993年から99年で、平均36%(単品で15%)カット、2)国内支持を1993年から99年で20%カット(基準1986〜88年)、3)輸出補助金を1993年から99年で金額36%、数量24%カット(基準1986〜88年)というものであった。フランスはただちに反対を表明、交渉は6年目に突入した。

5.1992年・・「力」の対決

 1992年は、米欧双方とも、油糧種子を欧州農業問題のテスト・ケースとして明確に意識し、ギリギリの「力」の対決にはいる。ECは、パネル裁定をGATT28条の関税譲許再交渉手続きのほうにキャナライズし、油糧種子問題とウルグアイ・ラウンド合意の同時着陸をめざすという防御的ながらリジッドな戦略をとり、米国は通商法301条という大まさかりをふりかざしつつも、容易にそれをふりおろさないという攻撃的ながらフレキシブルな戦略をとる(Schoenbaum 1175)。通商紛争そのものは、11月のいわゆるブレアハウス合意でいちおうの決着がつくが、この危機の過程で、EC側が、米国の一方的報復措置(通商法301条)に対する嫌悪を強め、これが、1991年12月のダンケル・ペーパーのなかでもとくに理想主義的だとして実現が危ぶまれていた多角的紛争解決システムの実現につながってゆく。

 1992年2月、ECの油糧種子新レジームが、前年1月の理事会勧告を満足するかどうかを審理するGATTパネルが再開された。米国の要求によるものだったが、ECももはや無理な反対はせず、これをCAP改革のテスト・ケースとして見守ろうという姿勢である。

 3月、GATT理事会に報告されたパネルの結論は、1)加工補助金の原産地差別をなくした点は、GATT3条4の内国民待遇を満足するが、2)国内支持は依然として生産志向的であり、世界価格の変動を遮断している点で、1962年の関税ゼロ・バインディングによるGATT利益の「無効化・侵害」(23条)にあたるというものである。これで、油糧種子方式のCAP改革案を策定中だったEC委員会は苦境におちいった。

 1992年4月のGATT理事会で、ECは油糧種子パネル報告をブロックしつつも、早急な実行案策定を予告した。これに対し、米国は10億ドル相当の対EC報復(注1)をおこなう用意があるむねGATT理事会に通告したが、各国(日本ふくむ)から、報復はECのパネル報告受諾と実行のいかんを見定めてからにすべきだという批判が集中した。

 同じ理事会で、米国も、キハダマグロ、カナダ製ビール、ブラジル製履物というパネル報告3件をいずれもブロックするというありさまで、GATTの危機をまざまざと見せつけた。

 5月、EC農相理事会は、18か月の交渉と4日間の大議論のすえ、ついにCAP改革案を採択した(理事会規則 1765/92)。これによると、国内支持は生産高ベースから耕地面積ベースの直接所得補助に転換、小規模農家はフルに補助金を受けるが、中大規模農家は、最小15%の減反が条件となる。同時に、穀物の介入価格を3年で29%カットする。ただし、これで、農業予算は1992年の330億ECUから1997年の370億ECUに増加する。

 フランス農相は、これによって、ECが(米国の)より危険な競争相手になるだろうと語っている(ITR 9-1019)。米国とフランスという核抑止力保有国は、通商交渉を冷戦の文脈でとらえている。

 5月27日、ECドロール委員長が米国ベーカー国務長官、ヒルズ通商代表、マディガン農務長官と会談、ウルグアイ・ラウンドでの農産品輸出補助金対象数量15〜18%カットを提案した(1991年ダンケル・ペーパーでは24%)。同じころ、ECアンドリーセン外務委員が、製品個々ではなく製品群で、かつかならずしも毎年均等でなくてもよいという条件で20%カットまで譲歩できるという発言をおこなっている(IUST 10-22)。ECは、米国がギリギリ満足する「落としどころ」をさぐっている。

 この会談では、ほかにも重要な展開があった。まず、いわゆる「平和条項」がEC側から提案された。つまり、ウルグアイ・ラウンド農業協定で合法とされる国内支持と輸出補助金が、1)米国での相殺関税、2)GATT16条および補助金協定、3)GATT23条の「無効化・侵害」の対象にならないことの保証を求めたのである。また、ECの従来のリバランシング要求がトーンダウンして、輸入急増や価格急落の場合のセーフガードにすりかわっている。

 EC委員会のこのような妥協的態度、とくに6月はじめにおこなわれたGATT28条代償提供の非公式提案(6月19日GATT理事会で正式提案の予告)にもかかわらず、米国通商法301条の手続きは着々と進み、6月9日、ヒルズ通商代表が、ワインや蒸留酒を中心とする油糧種子報復品目10億ドル分を発表した。通商法301条の硬直的性格が次第にあきらかになってくる。

 EC委員会は、米国の措置を、「油糧種子問題に関するGATTの結論が出ていない段階では、まったく法的根拠を欠く」として強く非難した(ITR 9-1058)。ECは、GATTの授権がないかぎり、一方的報復はできないという立場だが、これに対して、米国は、GATTの積極的な禁止がないかぎり、一方的報復は可能だという立場をとっている。この論争は、ウルグアイ・ラウンド世界貿易機関WTOが成立した現在でも、まだ決着がついていない。

 EC委員会は、6月19日GATT理事会で、GATT28条の関税譲許バインディング再交渉を正式提案した。米国はこれに否定的ながら、通商法301条のデッドラインとして、GATT28条所定の最短交渉期間である8月18日を指定した。

 7月13日米国でおこなわれた公聴会では、大豆業界の強硬論が孤立し、報復措置が米国経済にとってむしろ有害だという意見が多数を占めた。

 8月5日ジュネーヴでおこなわれた米欧会談で、ECは小刻み譲歩を重ね、1)コーン関税割当廃止、2)油糧種子関税割当(一定量まで関税ゼロ、それ以上は6%)を提案したが、米国は、これでは油糧種子業者に対する代償にならないとして拒否した。米国は、通商法301条の「たすきがけ報復」(cross retaliation)の論理をみずから否認しているのである。

 ECマクシャリ農業委員は、もし米国が報復を発動したら、ECも逆報復すると警告した(ITR 9-1411)が、EC側にそれなりの準備行動は見られない。8月18日になっても合意は成立しなかったが、米国は、GATT28条の複雑案件特則を援用して報復発動を見送り、それが米国側の譲歩であるとECに通告している(IUST 10-34)。米国も、破局へ向けての危機エスカレーションを小出しにしている(注2)

 8月20日づけ大豆業界ロビーのヒルズあて書信「報復開始によってECに対するメッセージを送るべきだ」(IUST 10-35)。8月26日ヒルズTV会見「GATTの信認性を回復しなければならない」(ITR 9-1546)。9月21日米超党派上院議員60名ヒルズあて書信「油糧種子解決はGATT紛争解決プロセスのリトマス紙」(ITR 9-1634)。

 9月はじめ、米国は、輸出促進プログラムEEP(外国補助金に対抗して補助金を支出する)にもとづいて、大量の小麦を補助金つきで輸出することに決定した。ちなみに、世界市場における米国産小麦のシェアは、1982年の61%から1990年の14%に激減している。

 これに対して、世界農業問題でいままで米国のバック・コーラスをつとめてきたケアンズ・グループの盟主オーストラリア(小麦でのシェアはコンスタントに世界の40%内外)がかみついた。米国は、これが対EC措置だと弁解したが、オーストラリアは納得せず、「これは米国の過剰報復だ。過去のプログラム期間中、米国のシェアは2%回復しただけなのに、ECは輸出を倍増して21%に達した。米国の補助金つき輸出は米国自身とオーストラリアの小麦市場をだめにしている」。

 10月15日、米マディガン農務長官は、EC油糧種子補助金に対抗して植物油輸出に対するEEP補助金を拡大する決定をおこなった。補助金戦争はすでに始まっていたのである(Schoenbaum 1186/Montana-Mora 33)。ここにもGATTの危機があった。

 9月29日GATT理事会では、米国が油糧種子問題の仲裁を提案、ECはこれを拒否して、かわりに当事国除く特別グループによる技術的問題だけの仲裁を反対提案、米国はこれを時間稼ぎとして拒否。表面は完全な手詰まり状態に見えたが、同日、ヒルズは報復実施を10〜14日延期すると通告した。実は、この時、米国ブッシュ大統領からECドロール委員長への提案で、ウルグアイ・ラウンド農業交渉の進展をはかるため、10月11日、ブリュッセルでヒルズ・マディガン、アンドリーセン・マクシャリの4者会談を開催するという運びになっていたのである。

 このころの米欧両者の危機感は本物だったようである(ITR 9-1721)。アンドリーセンは、8月、ブリュッセルで、米国ヨークサGATT大使に対して、もし米国が報復を実施するなら、油糧種子交渉は終りになるという深刻な言明をしていた(IUST 10-40)。ECの将来を占うマーストリヒト条約が、6月デンマークでは国民投票で否決され、9月(法律上の要件でもないのに国民投票にかけた)フランスでは僅差でやっと可決というきわどい状況だった(Strating 344)。米国は大統領選の最中である。

 10月11〜12日の4者会談では、ECが輸出補助金6年で22〜21%カットまで譲歩したが、その後、21日のブリュッセル会談では18%に逆戻りという混乱状態だった。EC内でドロール(フランス出身)・マクシャリ間に深刻な不一致があったらしい。28日、ヒルズは、記者会見で、「EC委員数人と電話で話したがみんな違うことを言う」とこぼしている(IUST 10-44)。23日のマディガン・マクシャリ電話会談も決裂に終わり、以後の交渉スケジュールも立っていないありさまだった。

 このあと1か月の事態の動きは目まぐるしい。23日以降ブッシュ、ヒルズがあいついで「数日中に報復決定」と言明。27日フランス通産相がウルグアイ・ラウンドから農業切離し提案「付加価値10%の問題に90%の時間を使っている」(注3)。28日英国メージャー首相(EC理事会議長)斡旋による米国提案をEC拒否。アンドリーセンはアジア訪問を延期して破局に備えている、

 11月1〜3日、マディガン・マクシャリのシカゴ会談がドロール干渉で決裂、マクシャリは任期あと1か月というのにただちに辞意表明・慰留という、大規模交渉の末期によく見られる内紛である(IUST 10-45)。11月3日、ブッシュ落選が確定。

 11月4日、米国はGATT理事会で報復発動を通告、翌日報復品目3億ドル分を発表。7日、EC通商大臣会議でフランスが逆報復を要求、全面通商戦争への暴走を心配した米国側が、ブッシュ「これは通商戦争ではない。交渉促進のためのGATT措置だ」、マディガン「米国の措置には法的・倫理的根拠があるが、ECの逆報復には法的根拠がない」、EC側も、メージャー「通商戦争に勝者はいない」など発言(ITR 9-1914)。

 危機のエスカレーションが破局寸前にまで高まったあと、事態が急転直下ほぐれた。ECマーストリヒト条約のフランス批准成功と米国大統領選の終了が、双方の政治的緊張を解き放ったようである。11月10日EC提案で、11月18〜19日、ワシントンの迎賓館ブレアハウスで、ヒルズ・マディガン・アンドリーセン・マクシャリの米欧4者会談がおこなわれた。

 ここで実現したいわゆるブレアハウス合意は、20日のマクシャリ「国際経済の勝利。CAPのGATT適合性が確認された」などの発言(ITR 9-1991)にもかかわらず、フランス首相・議会がただちに不同意表明、ヒルズ・アンドリーセン間に秘密書信が飛び交うなど、かなり強引な合意だったことをうかがわせるが、結局12月4日正式に調印され(ITR 9-2073/IUST Dec.11/25,1992)、米国は翌日から実施予定の報復措置を停止、破局は、すれすれのところで回避された。

 ブレアハウス合意はウルグアイ・ラウンド農業協定と油糧種子問題の両方にわたるものだが、前者は後述のウルグアイ・ラウンド農業合意と実質的に同じなので、ここでは油糧種子合意のみ概要を記す。ECは、次年度から油糧種子の作付面積を現行の7%強減らして1989年度なみに戻すともに、初年度15%(以後も10%を下回らない)減反(セット・アサイド)を実施する。上記はいずれも5月に理事会で採択されたCAP1992の枠内にある。

 ということは、油糧種子問題そのものは5月に終わっていたのであり、それ以後米欧間で争われていたのは、実は、もともとパネルで裁定されたわけでもなく、通商法301条で報復などされるいわれのないECの対ウルグアイ・ラウンド提案のほうだったのである。米国は、油糧種子という「針小」をテコにして、ウルグアイ・ラウンドでのECおさえこみという「棒大」作戦を展開したのである。

6.1993年・・通商戦に勝者なし

 1993年1月、役者の大部分が入れ替えになった。米国はクリントン大統領・カンター通商代表・エスピー農務長官、ECはブリタン外務・スタイケン農業委員というメンバーである。これ以後1年間、農業問題としては、EC内部におけるフランス説得(注4)が主になった。1993年6月、EC理事会はブレアハウス合意を承認した。

 ブレアハウス合意によって隘路を抜けたあと、ウルグアイ・ラウンド交渉は急速に進展、それでも多くの未解決分野を残しながらも、1993年12月15日、代表団レベルで合意、1994年4月15日、マラケシュ閣僚会議で正式合意へと進んだ。

 ウルグアイ・ラウンド協定付属書1A「モノ貿易協定」中の農業協定の骨子はつぎのようである(EC関連のみ)。

 1)市場アクセス

   イ.非関税国境措置の関税化・・現存するすべての非関税国境措置を、1988〜90年平均の内外価格差に相当する関税に置換する。

   ロ.関税引下げ・・通常関税は、1986年を基準として、1995〜2000年で、単品15%、平均36%カット(毎年一定率)。

   関税化品目についてはセーフガード目的の例外がある。輸入量急増と輸入価格下落のふたつの場合があり(いずれか一方のみ適用)、措置発動の年末まで、一定の関税引上げが許される。

 2)国内支持(国内補助金)・・1995〜2000年で20%カット(基準1986〜88年)。例外は、研究・防疫、教育、普及、検査、販売促進、社会基盤整備、公的備蓄・災害復旧、離農・農地転用・地域などの補助金で、a)公的負担(消費者に転嫁されるものは不可)により、かつ、b)生産者価格支効果のないものに限る。

 3)輸出補助金・・1995〜2000年に、予算で36%、各製品数量で21%カット(基準1986〜90年)。

 4)平和条項・・協定上許される国内支持に対しては、a)相殺関税、b)補助金協定、c)GATT23条の「無効化・侵害」が適用されない。また、協定上許される輸出補助金に対しては、a)相殺関税、b)補助金協定が適用されない。

7.おわりに

 4年間にわたる通商紛争を通じて、終始、米国は攻撃側、ECは防御側に立った。米国が通商報復の脅しを次第にエスカレートさせるという冷戦型戦略(Wohlstetter/George)をとったのに対して、ECは、小刻みな譲歩を重ねて時を稼ぎつつ、米国の「力の外交」に対する国際的批判を引き出すという古典的外交手法をとった。

 実は、ECにも、理事会規則 2641/84(米国301条のEC版)という逆報復のための通商手段があったのである。現に、ECは、1980年代中期のいわゆる「米欧レモン・パスタ戦争」(前出米欧農業紛争一覧参照)では、逆報復の発動をためらわなかった。しかし、今回、EC理事会は、これの発動(したがって米ソ冷戦型ゲームへの参加)を要求するフランスの提案をしりぞけて、ウルグアイ・ラウンド交渉の遅延によって生じる世界経済の破局という一般的恐怖をテコとして、米国の要求をおさえようとしたのである。

 ECが米ソ型の抑止戦略をとらなかったのは、気質的な問題もあろう(米国の抑止戦略の底には、西部無法時代に起源を持つ米国独自の歴史的気質がある)。また、この20世紀末、グローバルな規模で起こっていると思われる人の心のあり方における基本的な変化・・巨大な権力や管理を嫌い、繊細な優しさや思いやりを求める・・にも関係があろう。しかし、より直接的には、ECの伝統的農業政策が、GATT協定上はほとんど正当化の余地がないという引け目があったからであろう(legitimacyの欠如)。ECが農業で譲歩するにつれて「法の支配」の主張を強めていったのは、この力学の帰結であろう。また、ECは次回ラウンドの交渉アイテムとして、「環境と貿易」を強く提案している。

 米欧農業交渉においては、EC側がアンドリーセン、米国側がヒルズという、抑止ルールを熟知したプロのネゴシエーターが、次第にエスカレートする一連の通商危機を周到に演出することによって、それぞれの国内の政治的激発を宥和(注5)しつつ、CAP改革とウルグアイ・ラウンド合意の同時着陸をめざしていたのである。

 このエスカレーション・シナリオには時間的な限界があった。米国は、最後には、ふりあげた大まさかりの「信認性」を維持するという自己目的のために、通商法301条の報復を実行せざるを得なくなっており、ECは、スペイン・ポルトガル・ギリシャ・東独へのCAP拡大による財政破綻が目前に迫っていたのである。

 かかる状況下で、米国ではクリントンという未知の若者の登場、ECでは独特の核抑止思想を持つフランスの強硬姿勢と農民パワーの過激化という、米欧双方に出現した制御喪失による破局の脅威が、やや拙速ともいえるブレアハウス合意をもたらしたとみることができる。

 ただ、この米欧農業紛争を、交渉戦略という平面だけから見ては、大きなものを見逃すことになる。それは、この紛争ゲームのゆきづまりからシフトアップしたゲームのルールをめぐるゲーム、つまりメタ・ゲームが生み出した「法の支配」の発想である。長年続いた米通商法301条報復の危機下で、とくに、前出「レモン・パスタ戦争」での不毛な報復合戦を経験したEC側に厭戦思想がたかまり、それが「平和条項」とWTOの紛争解決手段へと昇華していった。

 WTOの紛争解決手段は、はじめはウルグアイ・ラウンド交渉15分野のうちのひとつ「GATT機能強化」グループの交渉事項だったが、このグループの仕事は、異論併記のままの1990年ジュネーヴ・テキストまでで終わっていた。その後、交渉の舞台は米欧農業交渉に移り、その中で、ECが正面切って米国通商法301条批判を開始し、平和条項の原形ができあがった直後に発表された1991年のダンケル・ペーパーでは、現在のネガティヴ・コンセンサスによる事実上の強制管轄法廷がほぼできあがっている。

 このアイデア・・とくに一方的な通商報復の非合法化・・に対してはじめから否定的だった米国(ITR 10-11488)が、1992〜93年を通して、直接有効な反撃を加えることができなかったのは、その間、米欧油糧種子紛争において、終始、受け身の立場をとっていたECが、米国通商法301条の不合理性を一貫して批判し続けたからにほかならない。もともと、米国通商法301条というのは、米国通商政策にとっての抑止兵器・・つまり脅し目的の巨大兵器・・だったから、デタント時代の「国際世論」にとっては、絶好の批判の標的だったのである。

 ウルグアイ・ラウンド協定付属書2「紛争解決規則と手続に関する了解事項(DSU)」の骨子は次のようである。

 パネルは総会のネガティヴ・コンセンサスがない限り自動設置。法律問題のみ審理する強制管轄の常設上訴機関を設置。紛争解決総会に対するパネル・常設上訴機関報告は、ネガティヴ・コンセンサスがない限り自動採択。協定事項について一方的措置禁止。

 4年間にわたる米欧農業紛争の結果、いずれもGATTの異端者であったEC共通農業政策と米国通商報復措置が、刺し違いの形で、あたらしいWTOの中に取りこまれることになった。

  米国通商法301条には「制裁」(sanction)という言葉は出てこない。「措置」(measure)と言っているだけである。「制裁」はそれを言う人の主観による。最近の日本のマスコミは、かつてイラクやリビアのような絶対敵に対して使われた「制裁」を好んで(自虐的に)使うようだが、本稿では、より伝統的かつ冷戦用語の「報復」(retaliation)を使っている。

   対EC農業紛争に見られた301条発動における米国のためらいは、1987年対日半導体紛争の場合と対照的である。後者において、米国は、紛争の仕掛けから報復発動まで一直線に、既定のスケジュールにしたがって行動した。この違いは、前者の本質が斜陽産業でのイデオロギー対立だったのに対して、後者がハイテク部門での赤裸々な市場争奪戦だった点であろう。

   米国の農業生産はGDPの2%にすぎない。米欧農業紛争の本質が経済問題よりイデオロギー問題だったことを示唆するするどい指摘である( Montana-Mora 2/36)。

   理事会は特別多数制だが、1965年のルクセンブルク妥協で、特定国だけに影響する事項に関しては全会一致をめざすことなっている(Jensen 1720/Strating 349)。

   Montana-Moraは、GATTを、「覇者」米国によって作りあげられた「レジーム」としてとらえ、その「機能」のひとつとして「宥和」をあげるとともに、国際関係の決定要因として、「力」のほかに「正当性」に着目し、これらのツールによって米欧農業紛争を説明している(Montana-Mora)。

参照文献

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