ショート・エッセイ集

 

[バッハ対バッハ]けさ6時のNHK FM「古楽のたのしみ」はバッハ「チェンバロ協奏曲」の予定だったが、同時間帯NHK BS3で堀米ゆず子さんがバッハ「シャコンヌ」を弾くのでBSのほうにした。すごい曲をすごい弾き手が弾く。きょう一日分のエネルギーを集中して聴いた。

[機関車とこおろぎ]1970年代中頃だったか、CDの(というよりその原型であるサウンド・レーザー・ディスクの)誕生に立会った。中央研究所のU技師長が日本最初の商用モデルを完成したのだが、基本技術はフィリップから私が導入交渉をした。のちソニーによって業界標準化されることになる音楽CDは12cm盤だったが、こちらは30cm盤。この巨大な情報量を演奏時間に投入したCDとちがって、こちらがめざしたのは超ハイファイだった。パレス・ホテルのパール・ルームを借り切っての発表会。千人を超す大聴衆の前で、蒸気機関車が遠くから接近してきて、耳を聾する大音響となり、やがて去ってゆくという、わざわざ田舎で録音してきたデモンストレーションが、会社ご自慢の大型ダイヤトーン・スピーカーを揺るがす。そこに私たちが予期していなかったおまけがついた。機関車の轟音とともに、線路わきにいたらしいこおろぎのかぼそい鳴き声がくっきりと聞こえていたのだ。

[郊外]東京郊外の団地、主婦が非常階段から飛び降り自殺した。死亡推定時刻は午前4時。こんな時刻まで彼女は何をしていたんだろう。きっと真っ暗な公園なんかをひたすら歩いていたんだろうな。都心なら、深夜ひらいているバーやカフェがあって、気がまぎれることもあったんだろうに。わたしがそこにいたら?

[悲しきワルツ]私が使っていたドイツの弁護士事務所はミュンヘンの中心部にあって、むかしの大邸宅を、外観はそのまま、内部を電子化してオフィスに使っている(同市の建築規制は厳しく、四角いコンクリートの箱は作れない。となりの邸宅は軍事裁判所)。バルデレ所長の還暦祝いパーティに招待される。会場の1階ホールは、黒と銀を基調にした重厚な第二帝国様式がそのまま。高いフランス窓の外は花盛りの庭園である。所員は夫人同伴で、いずれもビジネス・フォーマルやシャネル・スーツの立ち姿が美しい。庭園では、若い女性の弦楽四重奏団がエンドレスで演奏している。ミュンヘン高等音楽院生(全員それぞれの国ではプロである)のアルバイトである。ふと心に沁みる小品があったので、ファースト・バイオリニストに曲名を聞くと、シベリウスの未完作品「Valse triste」とのこと。あとでCDを買ってときどき聴いているが、そのたびに、あのあかるい庭園が眼に浮かぶ。

[アルトニコル]バッハのフアンとしては、彼が65歳で死んだあと、音楽家になったことがわかっている4人の男子以外の家族はどうなったのだろうかと気になっていました。けさのNHK FMで、磯山さんによると、バッハの20人の子のうち女子は10人、うち4人が成人しましたが、結婚したのはひとりだけ、エリーザベト(愛称リースヒエン)です。その夫アルトニコルはバッハ最晩年の弟子で、歴史ある地方都市ナウムブルクのオルガニストをつとめ、妻の母や姉たちの生活を支えたそうです。磯山さんは、演奏される機会のほとんどないアルトニコルの復活祭カンタータの録音を掘り出してきて、「長いので抜粋にしようかとも思ったのですが、珍しい曲なのであえて全曲を」といって30分かけました。音楽も良かったのですが、それ以上に、教会オルガニストと妻、妻の母や姉たちが住んでいる18世紀後半の北ドイツ地方都市、蔦の絡まった赤煉瓦の家の生活が眼に浮かびました。

[インベンション]10年ぶりにピアノを調律したら、音が輝くように良くなったので、インベンションから再出発しようとおもって、さっそくアマゾンで全音(市田儀一郎)版を注文しました。むかし使っていた井口基成版はなくなっていました――娘が嫁ぐとき持っていったな。10年以上ピアノに触っていないので指がこわばっています。まずハノンで指慣らし。軽く均質な音になるまで続けます。楽譜が届いたので、さっそく解説を読みました。これは長男フリーデマンの教育用に作曲したものだそうです。フリーデマンはバッハがいちばん嘱望していた子なのに、晩年は不幸だったようです。親はいつまでたっても、子供のことが心配なのですね。バッハは20人の子をもうけたのに、9人が幼児で死んでいます。子供の死には慣れるということがないでしょうから、そのたびにとても悲しかったでしょうね。バッハのすべての音楽に共通する悲しみは、こんなところから来ているのでしょうか。

[悲劇の音楽]ベートーベンのピアノ協奏曲3番イ短調を聴いている。運命的な呪縛に圧倒されそう。音楽とは関係ないのに、少年時代に観た映画「情婦マノン」を思い出している。男と女が必死に生きようとしてもがいているのに、どうしようもなく流されていって、最後は砂漠の中で死んでゆく。イ短調といえば、モーツアルトのピアノ・ソナタK310もそうだった。22歳のとき母とパリで就職活動中、母が病気で死ぬ。そんな中で作曲された異常なほど暗い曲。娘が中学生のとき、そんなに暗くなく美しく弾いてくれた。1980年代、モーツアルトの生家を訪ねたことがある。頭上に巨怪なホーヘンザルツブルク城が覆い被さるゴミゴミした巷(ちまた)の2階に彼の手紙が展示してあった。パリからザルツブルクの友人にあてた手紙で、「母が死んだ。このことは父に言わないでね」と書いてある。3年後ウイーンに出奔した。人生を走り抜けていったひとなんだろうね。

[ルネッサンス音楽]いま聴いているタリス・スコラーズは、指揮者と男女各5人のコーラスで、曲は没後400年になるスペインのヴィクトリアの宗教曲2曲。とくに高音域の女声がきれいで、曲の輪郭を浮き立たせている。吸い込まれるように聴きながら、例の雑念が起こってくる。どちらもフェリペ2世の宮廷礼拝堂で歌われたものだが、当時祭壇の上は女人禁制で、少年とカストラートが高音域を歌っていたはず。フェリペ2世の異端法廷が魔女に火刑宣告をするとき、この音楽が流れていたのだろうね。アウシュビッツのARBEIT MACHT FREI(労働は自由にする)広場中央で、収容者から選ばれた弦楽四重奏団が常時モーツアルトを流していたことを思い出す。NHK・FM「古楽の楽しみ」でつい美化しがちなルネッサンス後期というのは、こんな凶暴な政治権力と、こんな美しい音楽が、引き裂かれるような緊張関係にあった時代だった。現代でも変わらない。

[オーシャン・クァルテット]あまり思い出したくもない幼少期の記憶のかけらだが、中学から高校の数年間、バイオリンを習っていた。先生が弦楽四重奏団を作って、まず、モーツアルトの「アイネクライネ・ナハトムジーク」(弦楽合奏を弦楽四重奏に編曲したもの)に挑戦、コピー機もない時代なので、パート譜は先生の総譜を各自筆写した。先生が第1バイオリン、粉屋のお兄ちゃんが第2バイオリン、鉄工場のおじさんがチェロ、私がビオラである。練習中私以外のみんなが飲んでいたウイスキーにちなんで「オーシャン・クァルテット」と命名、小学校での初公演がきまった。第4楽章のアレグロ・ビバーチェ、みんなじぶんのパート譜だけみて必死で弾くので、終わりのコーダが1拍ぐらいちがってしまう。そのうち、父が事業に失敗して、追われるように故郷を捨てたので、あとがどうなったか分からない。だが、いまでも管弦楽を聴くとき、ビオラの「いぶし銀」系の音色に耳を澄ます習慣がついた。

[オーディオランド]使っていないスピーカー・セットを処分するのに、オーディオ製品買取サイトをいくつか開けてみました。ほとんどが現品受領後見積りというなかで、オーディオランド(実名ですが褒めるのだからいいでしょう)だけが「申込書通りなら○○円」と条件つきながら価格見積を出してきました。指示通り宅急便着払い送ったらすぐメールがきて、申込書通りだったからといって、見積り通りの代金を振り込んでくれました。なにか難癖をつけて値を叩いてくるだろう――そのときはどうしてやろうか――と戦闘的な気分でいたので、この結果には一抹の清涼感がありました。ビジネスマン時代だったら、値段が決まっていないのに、商品を先に渡すということは絶対しなかったとおもいます。C2Cには信頼が通用する世界がまだあったのですね(オークション・サイトなんかで、裏切りに対する制裁システム――といっても登録抹消ぐらい――を持っているところもあるのですが・・)。

[おもいで]きのうは、長年使っていなかったスピーカー・セットを、買取業者あて着払い宅急便で発送しました。きょうは、いままで何度かの粛清を免れて生き残っていたLPレコード数十枚(大半はCD化されていない廃盤もの)を、こんどこそゼロにしようとおもって、ロッカーから引っ張り出して1枚1枚みているうちに決心が鈍り、処分を無期延期しました(プレーヤーを持っているから優柔不断になるのですね)。いずれも、過去を清算しようという衝動に駆られて開始した行動だったのですが、実行できたのはスピーカー(ハード)のほうだけで、レコード(ソフト)のほうはさしあたり挫折です。スピーカーは私が長年勤めていた会社の得意技術で、私自身個人的に執着していた製品なのですが、木製キャビネットにこだわってプラスチック化に乗り遅れ、市場から姿を消したという挫折のおもいでがあります。老人は、こんなふうに紆余曲折しながら過去を忘れてゆくのでしょうね。

[ガールズ・バー]ジョギング・コースの途中に地元のちいさな歓楽街があって、3-4軒のキャバクラが古ビルに入っている。「ガールズ・バー」、「1時間3000円」、「同伴半額」、「昼キャバ同額」などと書いてある。毎朝4時ごろ通るので閉店時間である。外にSUVが止まっていて、若者が数人立ったりしゃがんだりして、大声で店の女の品定めをしている。いままで1時間づつ数軒ハシゴしてきたらしい。親分格は白スーツに小太りのイケメンで、大企業の面接担当者には受けるタイプ(先年子分に殴られた歌舞伎の御曹司もこの体形)。このタイプには見覚えがある。私が営業で回っていた電器屋の若社長だ。大量の不渡り手形を出して夜逃げしたが、それまでは地元で店員をつれて豪遊していた。メーカーの資金で回っているのに、自分の金だと思いこんで、店のレジからつかみ出していた(モラル・ハザード)――いまの電器屋はこんなことはしていないとおもうが・・。

[カンディード]NHK BSのクラシック倶楽部。かわいいカップルのピアノ4手連弾でバーンスタインの「キャンディード」を聴きながら、こどものとき岩波の赤帯で読んだヴォルテール「カンディード」をおもいだしています。北ドイツにある小国の王子カンディードがいとこのキュネゴンド姫とままごとの婚約をしているのですが、とつぜん起こった30年戦争で引き離され、家族をみんな殺されたうえ、自分も戦争のあらゆる惨禍に翻弄されます。やがて戦争が終わって、同じく苦労して生き抜いてきたキュネゴンドと再会して結婚し(幼かったふたりは、30年の辛酸を経て、中年の頑丈な農夫と農婦に成長しています)、ふたりで畑を耕してしあわせに暮しましたというハッピー・エンディングです。おとなになって解説などを読むと、ほんとうはこんなメールヒェンではなく、ヴォルテール一流の冷笑小説だったらしいのですが、私にとっては覚えているこのストーリーで完結しています。

[グレン・グールド]ロ短調という調性は、バッハのミサ曲やリストのソナタのように、この世のただならぬ苦渋を凝縮して表現するのにぴったりである。いま聴いているのはブラームスのピアノ・コンチェルト第1番ロ短調のカーネギー・ホール・ライヴ(1962年)。演奏の前に、指揮者のバーンスタインが異例のスピーチをしたので有名である。「ミスター・グールドが来ていますが、どうかおびえないでください(笑い)。・・指揮者としてのsmall disclaimerを申し上げます。・・にもかかわらず、この『思索する演奏家』の演奏は真剣に聴く価値があります」。ティンパニの大爆発に続いて、重い足を引きずるようなフル・オーケストラの前奏。グールドが、耳を疑うほどの超スロー・テンポで――重く、ねっとりとした音色で――弾き出す。ロマン派ってこういうものだったのか? いちど聴いたら忘れられない演奏である。あのころはみんな元気だったよね。

[クリスマス]バッハの「クリスマス・オラトリオ」のCDをかけました。1年に1回しか聴きません−−あまり好きではなかったので。というのは、冒頭いきなり太鼓の連打とトランペットの吹奏で驚かされ、あとも長調系のマッチョな運びで、いつものバッハの内面的な世界と違うし、ホワイト・クリスマスのしんみりしたムードもないからです。でも、けさは別な感想を持ちました。本来のクリスマスは救世主が生まれた喜びの爆発なのではないか。それなら長調でいいのです。そういえば受胎告知の「マニフィカト」も喜びの歌でした。たぶん私の耳が、「マタイ受難曲」の死と悲しみの物語に慣らされて、そればかりがバッハだと思いこんでいたせいかもしれません。さらに考えると、キリスト教の音楽は、予言、生誕、受難、復活というセット理解しなければほんとうに分かったことにならないのかなと理解がすこし進んだ気がします(以上3曲とも1960年代のカール・リヒター指揮)。

[タバコ・カンタータ]ドイツP社は小型モーターの名門だったが、いまは特許権の切り売りで食べている。PC用ファン特許侵害の警告書をばらまく。例によって他社はすぐ屈服するが、私だけ特許論争で突っ張ってゼロ回答。P社ついに米国で提訴、私は訴状受領を拒否して反訴。P社はいつまでたってもハーグ条約の訴状送達をおこなわず、そのうち、P社社長より会談申しこみ、私が中立地帯として指定したバンクーバーのホテルで2人だけの会談。険悪な交渉になったがやっと訴訟とりさげ合意、合意書にイニシアルを書き込んだあとは魔法が解けたようにリラックス。社長がルーム・サービスのコーヒーをほめたことから、バッハの「コーヒー・カンタータ」に話しが及び、「タバコ・カンタータもあるよ」、「ほんと?」。後日、「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳」の「So oft ich meine Tobakspfeife」(演奏Tragicomedia)CDを送ってきた。

[コンサート]NHK BS3日曜6:00-7:55「特選オーケストラ・ライブ」(ほとんどがN響定期公演。たまに海外もの)が4月から姿を消しました。「これからの放送予定」にも何も書いてありません。毎週視聴していたのに残念。時間が変わったのを私が知らないだけなのかもしれませんが、なんとなく事情が分かるような気もします。オーケストラをテレビで放映したら、わざわざホールへ来てくれるお客さん(concert-goer)に悪いということかな? この機会にシーズン券を買いましょう(渋谷の人ごみを掻き分けて歩くのはうんざりですが)。シカゴではシーズン会員だったので、隣のご夫婦と自己紹介しあって、休憩時間のロビーでワイン・グラス片手にショルティの悪口を言ったり、夏のシーズンオフにはラビニア(郊外の美しい草地)の野外音楽堂で――こんどは子連れで――会おうねと約束したりしてして楽しかった。日本ではそんなふうにはならないよね。

[コンペティション]たまたまFMをかけたらプロコフィエフだったので、むかしみた「コンペティション」という映画を思い出しました。ピアノ・コンクール最終選(コンチェルト)に出場した若きヒロイン。もともとおとなしい性格で自信がなく、選に残っただけで大満足という程度の心境で、大好きなモーツアルトの23番(いい曲だけど、ライバルたちのブラームスやリストにくらべてどうしても魔力で劣る)を心をこめて弾き始めたところでピアノの弦が切れる。宙に止まった両手をわなわなと震わすシーンが鬼気せまる。指揮者(バーンスタインそっくり)があわててピアノを交換しようとするが、「もういや。別な曲にする」と強引にプロコフィエフに変えて優勝してしまう。トラウマをバネにした逆転劇。

[シェヘラザード]いまリムスキー・コルサコフの組曲「シェヘラザード」を聴いている。1980年代(湾岸戦争の前)、クウェイトに出張したとき、駐在員ご夫妻がアパートへ夕食に招いてくれた。食後、奥様が窓際に立って手招きする。外はペルシャ湾で、タンカーの航海灯が動いている。ここは6階の角部屋なので、窓から隣の屋敷がわずかにみえる。広壮な屋敷で、この砂漠の国で緑いっぱいの広い庭がある。離れから本邸まで細い陸橋がかかっていて、そこを人が通っていく。華麗なアラブ衣装の女で、陸橋の途中で立ち止まってベールをあげる。月明かりで、これだけ離れていても妖しい美しさが漂ってくるようである。奥様がいう。「あそこはハレムだけど、あの人だけ、見られているのを知っていて、いつもベールをあげるの。日本人よ」「どうして分かるのですか?」「しぐさで分かるわ」。一瞬、バイオリンのソロが鳴って、カランダール王子や船乗りシンドバッドの世界が眼前にひろがる。

[鱒]いまFMでシューベルトのピアノ5重奏曲「鱒」を聴いている。1980年代はじめ、出張でミュンヘンにいたとき、これを聴きにアム・ゲルトナー・プラッツ劇場へいった。バレエがつくというので、「レ・シルフィード」風のどんな美しい演出になっているか楽しみだった。ピアノ5重奏団が舞台の袖にいて、舞台上は男女6人のストーリー・バレエ。演奏はすばらしかったが、聴いているうちに舞台がすごいことになっていることにきづいた。渓流にピクニックに来たふたつの家族のメンバー間で恋愛沙汰が起こって、テントのあいだに張った白布の裏で愛し合ってしまうのだ(影絵になっている)。ストーリーは音楽とともにハッピー・エンディングになり、観客(聴衆)は笑いころげて大拍手だった。ミュンヘン・オペレッタの妖しさというか、ビーダーマイヤー(当時ウイーンのサブカル)の寵児だったシューベルトにはもともとそのぐらいの毒性があったというか・・。

[ドイツ・バロック]NHK-FMの「古楽の楽しみ」は解説者が5週間ぐらいのサイクルで変わり、選曲もそれぞれですが、私がいちばん待っているのはバッハ研究の大家、磯山 雅さんです。ルネサンス音楽でドイツは後進国らしいのですが、それでもプレトリウスからはじまってしだいにバッハに近づいてきていました。そろそろハインリッヒ・シュッツだと思っていたら、先週は突然イタリアのクラウディオ・モンテヴェルディへ急旋回。モンテヴェルディも大作曲家ですが、だれかほかに軟(南)派の評論家がいくらでもいるのに。北ドイツ・バロックの特徴的な暗さは、ドイツが戦場になった30年戦争(1618-1648)という地獄に生きたシュッツが原点で、100年後のバッハに引き継がれているとおもうのですが・・。磯山さん、そろそろシュッツやってください。

[ハインリッヒ・シュッツ]今週のNHK FM「古楽の楽しみ」は、磯山雅さんの解説で、待望のハインリッヒ・シュッツ特集です。いままでは断片的にしか聴いたことがなかったので、これだけまとめて、しかも体系的に聴かせてもらえたのは新しい体験でした。水曜日はヨハネ、マタイ、ルカの3受難曲(導入曲と終曲だけ)、30年戦争の惨禍を生き延びた80歳すぎの作曲だそうです。まことに静謐で澄明な音楽で、この年齢に接近してきた私としては、こんなに静かな境地にあこがれます。木曜日は宗教的合唱曲集、30年戦争が終わる前年に出版されたということで、この全曲に流れるメランコリーがドイツ・バロックの通奏低音だったのだと気付かされました(こういう類型化が許されるなら、イタリアのは享楽的でフランスのは装飾的)。

[スタバート・マーテル]今週のNHK BS「古楽のたのしみ」は、私があまり好きでないフランス・バロック特集ですが、今朝は、当時チュイルリー宮で好評だったからといって、ペルゴレージのスタバート・マーテル(聖母の悲しみ)をかけました。キリストを亡くした母(アルト)と妻(ソプラノ)の、イタリア人の作曲らしい開けっぴろげな悲しみが心を打つ名曲なのですが、今朝の演奏はかなり興をそがれました。アルトがカウンターテナーで、マリア様の悲しみを男の裏声で力強く歌っているのです。当時、教会の内陣が女人禁制だったという通説がありますが、悲しみに沈むマリア様を大男のカストラートが演じて、みんなが満足していたとはおもえません。娼婦だったマグダラのマリアを少年ソプラノが歌っているのも??です。この禁制がどこまでちゃんと守られていたか疑問です。ワイマール時代のバッハが、婚約者のバルバラをオルガン席に連れ込んで騒ぎになったという噂もあります。

[ロ短調ソナタ]けさのBSはリストの「ソナタ ロ短調」。もっているCDはリヒテルとアラウで、どちらのジャケットもこの世の辛酸を嘗め尽くした不機嫌なおとなの男の顔である。ピアノは顔で弾くわけではないが、おかげで若に女性が弾ける曲とはおもっていなかった。しかし、NHKのインタービューで、演奏者のエレーヌ・グリモー(笑わない美女――年齢不明)が「リストの音楽には楽しいところなんてないわよ」といいはなったのを聞いて、私の差別意識が吹っ飛んだ。たしかにリストは聴いていて心地よい音楽ではない。ショパンの流麗もブラームスの妖艶もない(ベートーベンのソナタ32番も不機嫌な音楽だが・・)。このロ短調という調性に特有の苦渋に満ちた30数分で、リスト独自の音楽世界――ワーグナーを経て後期ロマン派という巨大な様式の扉を開いた――の奥の深さを垣間見せてもらった。

[シンセサイザー対アコースティック]ラヴェルのオペラ「ダフニスとクロエ」組曲を、富田勲のアナログ・シンセサイザー「モルグV」とアンドレ・プリヴィン指揮のロンドン・フィルで続けて聴く(比較するつもり)。弟が兄嫁に恋するドラマの夜明けの情景を、富田は小鳥のさえずりで、プレヴィンはフルートで描写している。ハープのアルペッジオを富田がうまくシンセサイザーで再現しているとはおもえない。全体のもやもやしたムードを、アコーステイックのほうがよりよく表現している。

[チェンバロ対ピアノ]FM東京のクラシック早朝番組「シンフォニア」は、曲もこまぎれで編曲が多くBGMむけだが、それなりに楽しい。けさはバッハの「ピアノ協奏曲第6番」というのでおどろいたが、聴いてみると、なんと「ブランデンブルク協奏曲第6番」のチェンバロ・パートを大音量のピアノで弾いている。おかげでいつもは管弦の下積みになっていてよく聴きとれなかった通奏低音がこれほどに華麗な音楽だったことがわかった。当時はサロンでの演奏だったので、管弦は各パート1人ぐらいしかいなくて、チェンバロの存在感が大きかったのだろう。いまは大ホールで演奏するため管弦を何倍かに増員しているのに、チェンバロの音量は大きくならないので、相対的にかすんでしまったのだ。ピアノに置き換えた気持ちがよく分かる。邪道だと怒る人もいるだろうが、いまの古楽器グループは音量をおさえて縮み志向なので、この逆手は、メンデルスゾーン以来のバッハ再々発見を予感させる。

[トン・コープマン夫妻]今週のNHK FM 「古楽のたのしみ」は磯山雅さんの解説でバッハのチェンバロ協奏曲全曲。今朝は2台チェンバロで、トン・コープマンと奥さんのテニ・マトー、老夫婦の息のあったデュオに耳をすます(おなじデュオで「フーガの技法」も持っている)。

[ナツメロ]シカゴ留学中の1972年中1月、領事館から紅白歌合戦ビデオ視聴会の案内がきた(35mmフィルムを外交行嚢で運んできたんだ)。場所は日本人街にある古い仏教会館。畳敷きの広間に座って仏前の白い垂れに向かう。ここは米国一世や留学生の会場で、外交官や企業の駐在員は「豪勢な1マイル」ミシガン通りの新築ハイアット・リージェンシー・ホテル。この年の圧巻は「喝采」で、地獄を見てきたような冷たい眼をした女(ちあきなおみ)が歌う「いつものように幕があき、恋の歌うたう私に、届いた知らせは黒い縁取りがありました。(それは3年前、田舎に捨ててきた男の訃報)・・教会の前にたたずむ私は、祈りの言葉さえなくしてた」が留学生のこころをえぐる。みんな涙を流していた。こころざしを抱いてこんな遠い異郷までやってきた留学生たちが、それぞれかならずなにか大切なものを犠牲にしてきたことを鋭く責めている。この時代ドラマチックだったんだな。

[バッハの生涯]20数年前、NHKの深夜番組で、偶然、東独製作の「バッハの生涯」という伝記ドラマを観ました(8時間の大作)。楽聖ではなく生活者バッハを描いています。ブクステフーデのオルガンを聴くため600km歩いた求道者。2人の妻(1人は死別)とのあいだに生まれた11人のこどもを育て上げ、うち3人を音楽史に残る作曲家にした子沢山の教育パパ。その1人(CPE)に「その平均率って変な音楽だね。パパは時代遅れだよ」と批判されるレトロおやじ。そのくせ、そのCPEが雇主にパワハラされているのを救うため、老躯に鞭打ってベルリンまで駆けつける親バカ。いつもはだしの聖トマス教会少年合唱団員に靴を買ってやるため、葬式や結婚式へせっせと彼らを連れいってモテットの出前演奏をする苦労人。このビデオをずっと探しているのですがみつかりません(東独が持っていたハイレベルのリアリズム文化は、壁の崩壊とともに滅びてしまったのでしょうか)。

[バッハ平均律]朝6時のNHK-FM「古楽のたのしみ」、今週のホストは待望の礒山 雅さんで、バッハ平均律クラヴィア曲集を、チェンバロとピアノのいろいろな演奏で聞かせてくれるという、個人では及びもつかないぜいたくなコレクションです。今朝(月曜)はヴァルヒャのハープシコード、フィッシャー、リヒテル、バレンボイムのピアノです。ヴァルヒャはたぶんモダン楽器で、古楽器ブームの最近ではめったに聴けない新鮮な音を聴かせてくれました。フィッシャーは1930年録音のモノラル音源だけに、かえって曲の形式美を極限まで純粋に表現してみせました。リヒテルはペダルを多用して、ピリオド楽器では不可能な玄妙な音の世界を聴かせてくれました。バレンボイムはロマンティックなバッハでした。基音を半音づつ上げていって、全24調性が聴けます――24色のパレットです。CとD♭で半音しか違わないのに、曲想がぜんぜん違うのです。あと3日間がたのしみです。

[バッハ無伴奏]NHK-FM朝6時の「古楽のたのしみ」。今週は磯山雅さんのホストで、バッハの無伴奏バイオリン・ソナタ3曲をモダン楽器で、パルティータ3曲をピリオド楽器で、1日各1曲、4日でぜんぶ聴かせてくれます。今朝は、ソナタ1番をイザベル・ファウスト、パルティータ1番をアマンディーヌ・ベイエールが演奏。時間が余ったので、比較のため、ソナタ1番の第2楽章だけ、ヨゼフ・シゲティで聴かせてくれました。現代のファウストとベイエールがスピーディ、スマート、クール、無機的、平静なのに対して、戦後のシゲティはスローで激しく、気迫に満ち、磯山さんが「私の世代におなじみの音」といっていました(私も同世代です)。私はこの曲のCDを何枚も持っていますが、そうえいばハイフェッツとパールマンの違いに驚いたことがあります。無伴奏チェロのカザルスとマイスキー、ロ短調ミサのリヒターとシュライアーもそうです。時代精神とでもいうのでしょうか。

[バッハ無伴奏2日目]今朝はソナタとパルティータの各2番、磯山さんの意図が見えてきました。ソナタ2番はSP時代パリで録音された19歳のメニューヒンで、清潔で明るいバッハでした。磯山さんは、わざわざ「昨日のシゲティの20年前ですよ」といっていました。録音の1936年というのは、ドイツのラインランド進駐、ソ連のスターリン憲法、日本の2.26事件など、ひどく悪い年で、私の時代精神論では、メニューヒンの明るさが説明できません。天才少年の若さが時代の暗黒を乗り越えて飛翔したのでしょう。パルティータ2番はバロック・ヴァイオリンのクイケンで、有名なシャコンヌでは、いつも華麗な分散和音に埋没してしまうバスの主題を、G線で太く歌いあげていました。磯山さんは「思い入れや思い込みから自由で、バッハ自身が意図した音楽を再現した」と絶賛しています。いずれの場合も、バッハには、個々の時代に左右されない普遍性があることを示唆しているようです。

[バッハ無伴奏チェロ]NHK FM「古楽の楽しみ」はひさしぶりに礒山雅さん。今週は、バッハの無伴奏チェロ組曲6曲を現代チェロとバロック・チェロで聴き比べます。はっきりわかるのは、現代チェロの大家たちが旋律を悠々と奏でる(フルニエなど曲全体にスラー、ロストロポービッチは超スロー)のに対して、バロック・チェロの若手たちが複音楽として立体的に弾いていること。原譜には速度記号もテンポ指定もないのだからどっちもありなのか、それとも組曲とは舞曲なのだからリズミカルに弾くものなのか(ヨーヨーマはダンスの伴奏で弾いた)。第5番ハ短調はもともと暗い曲なのに、バロックで弾くとさらに渋くなります。口直しに、磯田さんがかけてくれなかったマイスナー(ロマンチック)とカザルス(天上的)のCDで同じ曲をかけました。やはり現代楽器のほうが表現力がゆたかです。それにしても若手奏者が2部音符にかならず装飾音をつけるのはなぜでしょうか(空白恐怖症?)

[演歌]FMをかけたら演歌の時間がまだ終わっていなかったので、いい気持ちで聴きながら思い出しました。欧州出張からたまたま仕事の関係で南回りで帰ってきたとき、バンコック空港で数時間待ちになったことがあります。退屈しのぎに、もっていたウォークマンをFMラジオ・モードにして、ダイヤルをすこしづつ動かしてローカル局の音楽を探しました。おどろいたことに、たくさんはいってくる音楽がみんな日本の演歌なんですね。いやそうではなくて現地のポピューラー・ソングなのだけど、節回しやメリスマが日本の演歌そっくりなんです。日本の演歌をまねたのではなく、完全にタイ国産です。ほとんどが愛の歌で、涙や別れがメインテーマです(歌詞がわからないので直感ですが・・)。地続きでない日本とタイが音楽を共有しているというのは発見でした。両国のサンチマンの共通点は諸行無常の仏教でしょうか。演歌ベースのハンガリア舞曲ができませんかね。

[ピアソラ]NHK土日朝はろくな音楽番組がありません。FM「現代の音楽」は、だれか楽壇ボスの古希記念演奏会をやっていて、文壇や学会と同じゴマすり社会の産物でした(「平清盛」のテーマが現代音楽だって?)。口直しにCDでギドン・クレメルの「ピアソラへのオマージュ1&2」とヨーヨーマの「プレイズ・ピアソラ」をかけました。クレメル(バイオリン)はピアソラの旋律をスラーで美しく歌い、ヨーヨーマ(チェロ)は低音のリズムに徹してより原曲に近いという違いはあっても、いずれもすごい迫力で、とくにクレメル盤では、どすの利いたコントラルトで切々と愛を歌うMilvaのレシタティヴォにこころを打たれました。でもやはりタンゴはバンドネオンが命ですね。ブエノス・アイレスの波止場で生まれた大人の音楽タンゴは偉大な現代音楽です。こんなものをもっている(愛を知っている)アルゼンチンの国民性がうらやましい。

[ビオラ]弦楽四重奏曲のCDを2枚、モーツアルトのニ短調と、ブラームスのイ短調を連続でかけました。例によってビオラの音を耳で追いかけていたのですが、ふと気がつくと、モーツアルトは、ビオラを独立のパートとして、主旋律を切々と歌わせているのに対して、ブラームスは、ビオラをバイオリンかチェロのサブとしてしか使っていないのです(おかげでよく聴き分けられないのです)。モーツアルトが3声の複音楽だとすると、100年後のブラームスは、第1バイオリンが主旋律を歌って、ほかのパートが伴奏するという和声法の世界なのですね。ロマン派になって、音楽が変わってきたのでしょうか? どちらも名曲なのですが、カウンターテナーのスタバート・マーテルで欲求不満だったあとだけに、モーツアルトが自分のものとして表現する幼児の純粋な悲しみのほうが、ブラームスという近代人のなまぬるい憂鬱よりも、今朝の曇天ムードにはぴったりでした。

[ヒルデガルト]うちのCDラックは作曲者の古い順に並んでいるのですが、そのトップがヒルデガルト・フォン・ビンゲンです。1000年ちかく前、第1次十字軍のころの女子修道院長でした。作品も創作ではなく、自分の神秘体験を記録したものだそうです。セクエンツァの演奏をぼんやり聴いていると、なにかきらめく光の中に引き込まれそうで、ふと心が浮遊していきます。1000年とは気が遠くなるほど長い時間。ほかのCDであと1000年残るのはどれかな? ナショナリズムにとらわれたロマン派は全滅でしょうね。精神派のバッハはどうかな? 宗教の生命は長いから、いっしょに残るかな? ベートーベンはだめだろうけれど、モーツアルトは残りそう(宗教性はないけれど、時代性もないから)。音で遊んでいるビバルディやドビュッシーは残りそう。だいたい人類はまだ生きているのかな? はっと気がつくと、ヒルデガルトのCDが終わっていました――これが神秘体験?

[フランス組曲]今週のNHK BS「古楽の楽しみ」は磯山 雅さんの解説で、バッハ「フランス組曲」全6曲を、チェンバロとピアノで聴き比べるという耳の贅沢でした。おもしろかったのは、NHKにしてはめずらしく磯山さんの主張がにじみ出ていたことで、ケーテン時代の「アンナ・マグダレーナの音楽帳」に入っている第5番までは、チェンバロによるフランス風舞曲という「様式」を重視して、グレン・グールドを様式破壊者のように紹介しているのに対して、ライプツィッヒ時代の第6曲は、なんとピアノだけで通し、フランス風様式を超えて普遍的な器楽曲にふみだしたと評価しているのです。たしかに、私たち現代人にとって、チェンバロの典雅な響きに彩られたルイ宮廷の大舞踏会という「様式」はあまりにも無縁で、第6曲を弾いたファジル・サイやアリシア・デ・ラ・ローチャの乾いた音色のほうがより強く心をとらえます。磯山さんは、バッハに関する限り、ピアノのほうに軍配を上げたのではないでしょうか。

[ブランデンブルク協奏曲]今週のNHK BS「古楽の楽しみ」は待望の磯山雅さんで、バッハのブランデンブルク協奏曲をいろいろな演奏で聞かせてくれました。私にとってショックだったのは最終日の第5番で、チェンバロ・パートをマレー・ペライアがピアノで弾きました。ペライアは現代トップの名人で、コンサート・グランドの音量を最低にまで落とした苦渋の演奏だったのですが、それでもピアノのポンポンという音色はどうしようもなく、奇妙な音楽になっていました。旋律・節奏・和音を音楽の3要素といいますが、音色もそうなのでしょうか? ピリオド楽器の存在理由がここにあるのでしょうか。合奏曲では??かもしれませんが、バッハに関するかぎり、独奏曲ではチェンバロの原曲をピアノで弾くと、そこにはまったくあたらしい音楽世界が現出します(例:ジャック・ルーシエ)。

[ベルンハルト]今週のNHK FM「古楽のたのしみ」は、磯山雅さんの解説で「ドイツ・バロックの知られざる名曲」。けさはシュッツの弟子ベルンハルトでした。「知られざる」は私が知らなかっただけだという磯山さんの謙虚さに好感がもてました。ベルンハルトの「コンチェルト」(声楽)が、すごくロマンチックで、こころがゆさぶられるようでした。このロマンティシズムが、20年後輩のバッハが書いた「マタイ受難曲」のなかに昇華されているとおもうのですが、カール・リヒターの3度目の録音が「ロマンチックすぎる」と批判されています。前に書いた東独映画「バッハの生涯」のなかで、奥さんでソプラノ歌手のアンナ・マグダレーナが、バッハが与えた譜のパッセージを勝手に半音高く歌ってしまうのです。バッハがとがめると、「だって、歌っているうちに気持ちが高揚してしまったんですもの」と答えます。バロック時代、ほんとうはみんなロマンティックだったのですね。

[マーラー3番]きのうは発明協会で「知的財産権と独占禁止法」講義6時間。ほどほどにしようとおもっていたのだが、受講者に司法修習所卒がいたので、彼女を意識して全力のハイエンド講義になる。ヴィックスを絶やさず、マイクを使っているのに声がかれる。きょうもメンタルな疲れが後遺症になっていて、朝のジョギングで転ぶ。自分を落ち着かせるため、マーラーの「第3交響曲」(マゼール指揮ウイン・フィル)を聴く。CD2枚。マーラーの憂鬱な世界が金管の重低音で展開する。第5楽章の児童コーラスが美しい。おまけの「亡き子をしのぶ歌」(アグネス・ヴァルツァー)を含めて3時間近く。白ワインのボトルが空になって、やっと緊張が解けてくる。いい年をしてなにをやっているのだろう。

[マッチ売りの少女受難曲]けさのNHK・BSプレミアム「クラシック倶楽部」は、米国の若手ディヴィッド・ラングの「マッチ売りの少女受難曲(The Little Match Girl Passion)」。アンデルセンの原作を、バッハ「マタイ伝受難曲」の構成に沿って作曲したもの。ソプラノ、アルト、テノール、バスの4人だけで、ソロとコーラスをこなす(リフキン方式)。ステージは暗く簡素でたまに雪を降らせる程度。このどうしようもなくかなしい原作を、「マタイ」の犠牲と救いのテーマで昇華したのはみごと。冒頭合唱の「おいで、娘(たち)よ」、終わり近くの「エリ・エリ」の叫び、追悼のコラール「いつかわたしが世を去るとき、わたしから離れないでください」、子守唄風の終曲合唱「われらみな涙流しうずくまる」まで、マッチ売りの少女のかなしみとキリストの受難をぴったり重ね合わせる。少女のかなしみを「われらみな」がシェアする受難の本質。

[マニフィカト]NHK FM「古楽のたのしみ」は、磯山 雅さんの解説でマニフィカト(受胎告知)特集です。マニフィカトについてはいままで断片的に聴いてきましたが、こんなにまとめて聴くのは初めてです。グレゴリオ聖歌やパレストリーナから始まって、最終日のバッハまで、これがただの聖書物語(ルカ福音書)ではなく、マリアの精霊受胎に象徴される人間の希望を象徴した音楽であることを知りました。マリア崇拝を否定しているプロテスタントですらマニフィカトは受け入れているそうです。「希望」は、どんなにはかなくても、人間の最後のよりどころなのですね。バッハのマニフィカトはリヒター指揮のCDをもっていますが、いきなりトランペットが歓喜に満ちた世界の扉を開き、アルト(ヘルタ・テッパー)とテノール(エルンスト・ヘフリガー)の二重唱がセクシーといっていいほどです。でもけさのFMはアルトをカウンター・テナーが歌っていたのでちょっと気色わるい。

[マリー・ラフォレ]パリ出張でラファイエット・ホテルの高層階に泊まった。夜、ハード・ネゴで疲れ果てて帰ってくると、エレベーターが2階で止まる。盛装した美女が乗ってきて、英語で「メイク・ラヴしません?」と誘ってくれる。丁重に辞退して部屋に戻り、冷蔵庫のミニボトルを空けながらラジオをつけると、きれいなソプラノが、「草に埋もれたローラの、そしていい香りのするクララのお墓」としみじみ歌っている。墓のふたりが姉妹か友だちか分からない。終わってアナウンスを聞くと、フレスコバルディの古楽をシャンソンに編曲したもので、歌手はなんとマリー・ラフォレである。60年代、男の子たちの究極のアイドルだった美少女が、40年の空白のあと、遠い追憶を歌っている。一瞬、「太陽がいっぱい」のヨット上で、アラン・ドロンとのはかないラヴ・シーンがよみがえる。

[マルチプロセッサ]けさのBSプレミアム「クラシック倶楽部」は、そのまえのひどく野卑な祭り中継に押されて開始が遅れたので、同時刻のFM「古楽の楽しみ」の方を聴いた。バッハのオルガン・コラール「私は主の名を呼ぶ BWV639」をビオラ・ダ・ガンバ四重奏で演奏している。4声がはっきり聞き分けられて、初心者の私にはぴったり。この曲は名曲で、なにか遠い島の静かな思い出のよう。もう祭りは終わったかなとおもって、BSを無音でオンしてみたら吉川隆弘のピアノ。字幕に「スカルボ」とでてきたので、ラヴェル「夜のガスパール」と分かる。吉川くんの手許を見ているうち、耳の中に音が鳴ってきた。バッハとラヴェルの競演になってしまったが、けっこう楽しめた。人間の音楽感覚はマルチプロセッサになっているそうだがほんとみたいだね。

[モーゼとアロン]1980年代はじめのミュンヘン。夏の午前、ダウンタウンの法廷で仕事をすませ、ホテルまで近道の英国庭園を突っ切る。中ほどで異変に気づく。周囲の人々がみんなヌードなのだ。橋から見下ろすイーザル川の川原には何千人もいる。私だけダーク・スーツに黒かばん。地面だけみつめて早足で庭園を出る。午後、アルテ・ピナコテーク。戦争を描いたゴブラン織り。転がった首の切り口に穴が3つ。夜、国立劇場でシェーンベルクの未完のオペラ「モーゼとアロン」。燃える茨、黄金の子羊、トップレスの乙女たちを運ぶ半裸の男たち、白布で囲まれた舞台、「シュッ」とか「ハッ」という気合にしか聞こえない合唱(ドイツ語だからではない)。夕食は「ミュンヘン・プラッター」(ソーセージ、牛肉、肉団子などザワークラウト上で煮込んだものを鍋のまま、生ハムとラデッシュのスライスを載せたもの)。ホテルのサウナはco-ed。ああ疲れた。

[モーツアルトの短調]今朝の「古楽の楽しみ」はクープランの「リュリ賛歌」。楽壇ボスへのゴマすり音楽でつまらないのでプツン。そのかわり手近にあった金沢明子のCD「モーツアルト・アンコール」をかけました。いきなり流れる「幻想曲ニ短調」。明子さんはうまいのですが、これが強烈にこころ騒がせる演奏。朝からこれではたまらないので、隣にあったリリー・クラウスでおなじ曲に再挑戦。こんどは内省的で引き締まった演奏ですが、なにか聴くほうが責められている感じでやはりdisturbing。口直しにもっとドライなのをと思ってグレン・グールドのソナタ集にしたら、冒頭がたまたまイ短調K310で、モーツアルト20歳のどうしようもない憂鬱が猛烈なスピードで突っ走ります。モーツアルトは短調の曲がすくないのですが、ほかの作曲家の短調数曲分を凝縮したぐらい暗いのですね。結局短調の連続3曲で、今日1日のムードができてしまいました。朝の選曲は大切ですね。

[リヴィエラ]シカゴ大留学中よく行ったのが、ダウンタウンの場末、高架線わきの古ビルB1にある「リヴィエラ」という安いピアノ・バー。経営者兼バーテンが日系一世のグランマ。ホステスはいない。名誉回復したもと東京ローズ――you know?――にもそこで会った。ピアニストは20代後半の日本人女性でケイちゃん。無口で、客になにかいわれてもかすかに微笑むだけ。本人はなにもいわないが、グランマによるとジュリアード音楽院出身とのこと。たしかにプロで、どんな音痴の歌い手にも即座に音を合わせる、リクエストでラフマニノフの「前奏曲嬰ハ短調『鐘』」を軽々と弾く(重い曲なのに)。そのうち、日本へ帰って田舎で結婚することになった。みんなで「よかったね」といってチップをはずんだ。数か月後行ったとき、グランマに「ケイちゃんから便りがある?」と聞くと、「結婚式の1週間後に自殺したよ」とそっけない。女の最後の勝負手も麻薬に勝てなかった。

[バッハのカンタータ]NHK BSとFM、朝6時台のクラシック番組が激減したので、CDを聴いています。選曲で迷うのがおっくうなので、手当たり次第ですが、やはり右手は、ついバッハのカンタータ群のほうへ向かいます。大半がカール・リヒター指揮ですが、歌手の比較ができておもしろいですね。ソプラノはウルズラ・ブッケル、マリア・シュターダー、エディット・マチスと3代にわたりますが、いずれも透き通った美しい声で、ロマン派オペラとはまるでちがいます。

[リヒテルの衝撃]LPレコードを整理していて気がついたのですが、スヴャトスラフ・リヒテルのピアノとキリル・コンドラシン指揮のロンドン交響楽団によるリスト「ピアノ協奏曲1番/2番」のLPが2枚ありました。ジャケットは違うのですが、どちらも1961年の録音です。ダブル買いかと一瞬憮然としましたが、おもいだしました。1枚はスタジオ録音(CDももっています)で、もう1枚はその5日前ロイヤル・フェスティバル・ホールで行われた実演のライブ録音でした。こちらはCD化されていないようなのですが、長年ソ連から出られなかった幻のピアニストによるイギリス初演ということもあって、リヒテルもコンドラシンも神がかり的になっていて、スタジオ録音版とは比較にならないものすごい迫力の演奏でした。聴衆の拍手が鳴り止みませんでした。リヒテルとはいわず、ふつうの人間でも、一生のうちに一度はなにか天上的な仕事をする機会が与えられているのでしょうか。

[都会の夜]都会に夜はないというのは認識不足。いま歩いている歩道は、街路灯が反対側だけついているので、100m切れ目なく続く鋼鈑製ガードレールの影で真っ暗。ぎゃっ、猫の死体踏んでしまった。かわいそう。といって車道を歩くと、車がヘッドライトぎらつかせて突っ込んできたとき歩道へ逃げられない。

[偉大な芸術家の思い出]チャイコフスキー「ピアノ三重奏曲イ短調」を3日連続で聴いてしまいました。きっかけはNHK BS朝6時クラシック倶楽部のギドン・クレメール・トリオ、白髪のクレメールとバルト美女のピアノとチェロ。ピアニストが、第2楽章の連続分散和音を完璧な技巧で控え目に弾いて、痛切な悲しみを優しく包みこむヒーリング音楽でした。ほかの演奏も聴きたくなってCDラックからハイフェッツ、ルービンシュタイン、ピアテゴルスキーの共演をみつけてかけました。みんな当時の超大物、ぶっつけ本番とみえて音はバラバラ、とくにピアノがガンガン叩いて、分散和音も超高速で重和音にきこえました。1950年のアメリカ音楽はこんな体育会系だったでしょうか。最後はソ連ボロディン・トリオの1980年録音で、これが音楽的にはいちばん充実していました。1950年から2013年まで、音楽が、勇壮から優美に、マッチョからフェミニンに変わってきたのですね。

[至福のとき]毎朝ジョギングから帰ってきてシャワーを終えると6時、NHK・FMとBSプレミアムをオン、FMの「古楽の楽しみ」とBSの「クラシック倶楽部」のうち気に入った方を7時まで聞いています。至福のときです。きょうはFMの方が関根敏子さんの「南フランスの音楽」、BSの方が森麻季さんのソプラノ・リサイタル。私はドイツびいきなので、BSにしました。テレビなのでものすごくビジュアル、メインはハイドンとヘンデル(例のオンブラマイフも)でしたが、アンコールでプッチーニの「私のお父さん」を歌ってくれました。この曲は20年以上まえ「異人たちとの夏」という映画(亡き父母の亡霊がでてくる)の主題音楽で、ちょうど思春期だった息子がものすごく気に入ってしまったことを思い出しました。親離れ期の葛藤だったのでしょうね。

[運動会]7階の窓から一望できる小学校の運動会。家族シートのいい場所をとるため、午前4時から校門前に父兄が並ぶ。開会式は学年別に並ぶので、低学年の列が痛々しいほど短い。競技開始。こどもたちが必死に走る。一般に小さい子のほうが速い。合間に学年全員によるマスダンス。音楽は、わたしの耳には異質なヒップホップ系と沖縄民謡だが、みんなでおなじ動作をするので、北朝鮮みたいで気味が悪い。昼休みはシートに家族が座りこんでお弁当。おやじがカメラを構えて歩きまわる。日本はさしあたり平和で、なににも換えがたいしあわせの情景。午後3時閉会。こどもたちが自分の椅子を教室へ運んでいって、みるみるひとけが減っていく。家族シートもなくなる。先生たちも帰っていく。校庭には、踏み荒らされた白いラインだけが薄く残る。帰りそびれてぐずぐずしていたこどもたちの甲高い声がしだいに遠くなる。やがてみんな帰って、あとはしんとなる。うたげの終わり。

[映画の中のクラシック音楽]フランス映画「しあわせ」では、モーツアルト「クラリネット五重奏曲」の甘美なメロディが流れ、なんの苦労もない中産階級の若い母親が自殺します。ジャンヌ・モローの「雨の忍び会い」では、ヒロインが男の子をピアノ練習につれていくバックに、ディアベリ「ソナチネ」が鳴っています。とつぜん近所の家から女の絶叫。愛人に刺し殺されたことをあとで知ります(愛の極限?)。おなじくジャンヌ・モローの「恋人たち」では、長いラブシーンのあいだ中ブラームス「弦楽六重奏曲」第2楽章が鳴っています。重く濃厚なドイツ・ロマン派がぴったり。スエーデン映画「美しくも悲しく燃え」では、脱走兵が女を連れて国境をさまよい、花畑で無邪気に蝶を追っている彼女を射殺します。モーツアルト「ピアノ協奏曲21番」第2楽章の甘美なメロディが、これがあわれみの殺人であることを暗示します。クラシック音楽って悲劇(「恋人たち」もふくめて)に合うんですね。

[音楽の捧げ物]いまCDでバッハ「音楽の捧げ物」を聴いている。この曲にまつわる挿話には裏がありそうである。(表)プロイセンのフリードリッヒ大王に仕える次男カール・フィリップ・エマヌエルの紹介で大王に拝謁したバッハが、大王から与えられたテーマをもとに3声のリチェルカーレを即興演奏する。6声にしてみよという大王の命を拝辞して、帰郷後、改めて6声のリチェルカーレをふくむ「音楽の捧げ物」を完成し大王に捧げた。(裏)拝謁時与えられた楽器は、バッハがかねて批判していたジルバーマン製のフォルテピアノであった。これはジルバーマンの後援者だった大王がしかけた姑息なパワハラであった。最晩年のバッハはそれを察知していたが、次男の立場を救うため、ポツダムまで旅をしたのだ。「音楽の捧げ物」に一部を除いて楽器の指定がないのはバッハの抵抗であったろう。いくら芸術の保護者と自称しても、正史には載らない専制君主の矮小さが露呈している(「大王」というのは自分でつけた称号だ)。

[音楽の捧げ物――続き]けさのNHK-FM「古楽の楽しみ」は、磯山 雅さんの解説で、バッハ「平均率クラビア曲集第2巻」から数曲。どういう趣向か――磯山さんの趣味ではないと思うが――後半3曲をジルバーマン製フォルテピアノの復元機で弾いている。これは以前このエッセーの「音楽の捧げ物」で、バッハの遺恨試合になったことを報告したその楽器である。私は初めて聴いたが、オーディオ・フェチたちが悪口でいう「ドンシャリ」音である。これで3声のリチェルカーレを即興演奏させられたバッハが気の毒。いまのピアノは、打弦楽器という点がおなじだけで、はるかに洗練されたまるで別の楽器だが・・。チェンバロはバッハ当時すでに完成の域に達していたのだ。そういえば、きのう午後の「クラシック・カフェ」も、ショパンの2番コンチェルトを、当時のフォルテピアノで弾いていたっけ。勇ましいショパンだった。いずれも、いま世界的に起こっている反文明運動の一環かな?

[音楽学部]シカゴ大学到着すぐインターナショナル・ハウスに入る。翌日隣室からピアノの音が響く。ベートーベン「熱情」の1節だけを何回も再生している。まもなくドアにノックがあり、開けると長髪で知的な感じのイケメンで、「隣のグレッグです」と自己紹介。大学の音楽学部の学生で、宿題で演奏のアナリーゼ(分析)をやっているのだが迷惑だろうかと心配顔である。「バックハウス? 私も好きですよ」というとよろこんでいる。友達になって、音楽学部を案内してくれる。音楽図書館には仕切り席が30ぐらいあって、司書のおねえさんにリクエストすると、机のヘッドセットに音楽が流れてくる。カード検索で何千曲もある。他学部生もOK。マンデル・ホールにジュリアード・カルテットがきて、5ドルでモーツアルトのK421を聴く。いきなりフォルテで迫る痛切な哀しみ。音楽学部へ入り浸って専門の勉強が手につかなかった。悔い多き青春のおもいでのかけら。

[出奔]シカゴ大で無銭聴講した「音楽史」で、教授が「音楽史とは『音楽の歴史』ではなく、『人間の歴史』に対する音楽からの接近だ」といっていました。著作権法の本には「近代的著作権制度ができるまえ、芸術家たちは王侯貴族の庇護のもとで生きていた」と書いてありますが、ちょっと疑問もあります。NHK FM朝6時の「古楽の楽しみ」は、伊、独、仏の特集が交代するのですが、なかでどうしても面白くないのがフランスの宮廷音楽です。当時、3か国のなかで圧倒的に強大だったのがフランスで、音楽家たちは、太陽王の腰巾着だったリュリをトップにするピラミッド構造のなかにとりこまれていました。同じころ、バッハはケーテン宮廷に飽き足りなくてライプチッヒ自由市に移ったし、のち息子のCPEもポツダム宮廷を出てハンブルク自由市に移りました。後年、モーツアルトもザルツブルク大司教のもとからウイーンに出奔します。出奔こそが芸術の源泉だったのでは? 

[暗い海]FMでシベリウスのヴァイオリン・コンチェルトを聴いています。暗い美しさをたたえた曲ですね。夜の海の暗さです。ふと思い出したことがあります。私が少年時代を過ごしたのは福島県の小名浜という漁村で、家は海から300mぐらいしか離れていませんでした。24時間絶え間なく波の音が聞こえています。「潮騒(しおざい)」なんて詩的なものではありません。夜寝ていると、波の音に混じって人の叫び声が聞こえます。浜育ちの母に聞いたら、「ああ、それは海で死んだ人の声だよ」とこともなげにいいました。いま、オーケストラの深い響きの上に、ソロ・ヴァイオリンが繊細な高音でわずかに際立って聞こえます。海で死んだ人の声です。若いときから国民的芸術家として首都ヘルシンキでちやほやされていたシベリウスですが、ひとりでバルト海の海鳴りを聞いたことがあるのでしょうね。

[譜めくり]音楽がテレビ時代に入ってから、どうしても気になるのが、伴奏ピアノの譜めくりです。ほとんどが若い女性で、黒づくめの服装をし、拍手の時でもだまっていすに座っています。楽譜が読めなければ勤まらないので、たいへんなプロの仕事ですが、どこにも名前は出ていません。以下の2例は事実に基づくものではなく、まったく私の(たのしい)想像です。
 バイオリンの庄司紗矢香は可愛い少女ですが、ピアノ伴奏のジャンルカ・カシオーリはイタリア人のイケメンで、譜めくりは豪奢な美女です。たぶん奥さんで、夫が紗矢香に手を出さないように監視しているのでしょう。
 私は若い時からジョアン・マリア・ピレスのファンです。いまは白髪になっていますが、譜めくりが若い美女で、かつてのピレスそっくりです。きっと娘さんでしょう。聴衆(観衆?)は、若かりし日のピレスとイメージを重ね合わせて、じぶんが若かったころにタイム・トリップするのです。

[葬送の花束]午前2時の葛西橋通り。赤ランプ点滅中のパトカー数台。警官が数人現場検証中。車道に短いブーツが片方転がっている。若い女性が自転車で横断中タクシーにはねられ、反対方向からきたタクシーにもはねられて即死とのこと。以来3年、ガードレールの根元に、ガラスの花瓶に活けられた花が絶えない。

[幻想交響曲]NHK FM「音楽の泉」でベルリオ―ズ「幻想交響曲」を聴く。だれでも知っている曲だが、シャルル・ミンシュ指揮ボストン響がいかにもファナティックで、いつも聴くドイツ・ロマン派とはあまりに異質だったので、ふと音楽中辞典を開いてみた。ベルリオーズ(1803-1869)はシューマンより数年、ブラームスより30年先輩で、「幻想交響曲」の完成は1830年、7月革命の年である。彼は、11歳でナポレオンの没落、27歳で7月革命、45歳で2月革命と、フランス革命後期をもろに生き、同世代のバルザックやユゴーが描いた情熱的な人々のひとりだった。この時代パリのエトスだったアナーキズムは、彼の死後2年目、パリ・コミューンとともにとどめを刺され、彼は後継者を持たなかった。反対に、ドイツでは、メッテルニヒ/プロイセンの保守政治とゲーテの古典精神のもとで、「ドイツ・ロマン派」の秩序あるパラダイムが成立した。

[秋の日の喫茶店]グレン・グールドとの出会いは、ある秋のあかるい昼下がり、通りすがりの喫茶店でふと耳にしたバッハのフランス組曲だった。駒場の高台にある小さな喫茶店で、若い姉妹が2人だけでやっていて、冬になると休業し、春になるとどこからか帰ってきて再開するという店だった。そばを通ったら、ちょうど開いていた南欧風の小窓からピアノの音が流れてきた。フランス組曲だとは分かったが、いつも聞いているチェンバロの典雅な響きとはちがって、速いテンポでスタッカート気味に弾くあかるい演奏だった。なんとピアノの音にハミングの声が、聞こえるか聞こえないかぐらい音量で混じっている。ピアニストが弾きながら歌っているのだ。入口から覗くと、レジに妹がいたので、「だれが弾いているの?」と聞くと、LPのジャケットをみもせず「グレン・グールドよ」と教えてくれた。いまグールドのフランス組曲を聴くたびに、あのあかるい昼下がりが私の眼前によみがえる。

[少女像]公園の入口に青銅の少女像がある。3歳ぐらい。腰掛けて、片手を口に当てている。だれか(何人かいる)が、冬になると手編みのセーターを着せ、雛祭りには菓子の小袋を持たせる。先夜半ついにそのひとりをみつける。若い女性で、少女像の腕にカーネーションの花束を持たせている。母の日の前夜だった。

[浄められた夜]シェーンベルクの弦楽6重奏曲「浄められた夜」は、大好きな曲だが、いつも終わってから、「ああ聴くんじゃなかった」と後悔する。暗く重苦しい曲で、????と執拗にくりかえされる下降音形を聴いているうち、「あのとき、あんなことするんじゃなかった」、「あのとき、ああすべきだった」という――けんめいに忘れようとしていた――いまさらどうしようもない思い出が、どっと襲いかかってくるのだ。私のただひとりの恩師といえる元公正取引委員会委員の有賀美智子さん(故人)にお会いしたとき、彼女はお足を不自由そうにしておられたが、「こんな重荷を下ろせるといいのにね」としみじみいわれたことがある。50代でまだ若かった私は生意気にも「一度背負った荷物は下ろせないんですよ」といきがってみせた。先生はだまって微笑んでおられたが、こんな思い出も、いま当時の先生の年齢に追いついた私をさいなむ。さ、早くみんな忘れて、仕事にかからなくちゃ。

[夜の森林公園]都会の夜中を歩いていて、どうしてもなじめないのが路傍の森林公園である。ところどころにある水銀灯がかえってこちらの眼を眩ませ、広い範囲がよけい真っ暗にみえる。森のむこうになにか低い建物があって、旧式の白熱灯がついているのだが、赤い光が木々を下から照らして、静かな火事のようである。

[深夜の人々]深夜街を歩くと昼間とはちがういろいろな人に会う。真っ暗な歩道の縁石に中学生ぐらいの女の子が頭を抱えて座っていて、つまずきそうになる。角を曲がると、駆けてきたハイミニの女の子とぶつかる。遠い街灯の光を黒い巨大な塊が隠蔽してゆく。近づいてみると空缶の袋を山のように積んだ自転車の女だ。

[神保町]3月の寒い午前4時、駐車場の暗い陰にちらと華やかな色彩。花柄のパジャマを着た年配の女性が縁石に腰掛けている。声をかける。「失礼ですが、どうしました?」「あのう、神保町はどう行ったらいいのでしょう?」「歩いたら3時間ぐらいかかりますよ。神保町から来られたのですか?」「はい。映画館の裏なのですが」と、きれいな下町ことば。「そういえば、むかし名画座がありましたね」と、わたしまで彼女の世界に取り込まれてしまったとき、彼方から老人が急ぎ足でやってきて、「や、ここにいたか。彷徨癖が出て困るのですよ」と手を引いていってしまう。

[愛の行動]私のオフィスの隣はワークショップ・ルームで、いつも窓を開けてあります。外が花畑で気持ちがいいので、壁のBOSE(スピーカー)に音楽を流しながら、ここで昼食をとります。きょうはメシアンの「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」(鳥の声シリーズでなくて残念)。窓から若い雀が2羽入ってきました。メシアン独特の高音の反復も、そばで見ている人間のおじさんも気にしません。サンドイッチのパン屑を指ではじいてやると、1羽(あきらかにオス)がそれをくわえて、メスのくちばしの中に押し込んでいます。メスはからだぜんたいを震わせて喜んでいます。オスは自分では食べようとしません。とてもうつくしいラヴ・シーンでした。これはオスの求愛行動なのでしょうが、じつは幼鳥への給餌行動のテストで、「あなたならわたしの子の父親にふさわしいわ」とメスに評価されたのでしょうね。寿命が2年ぐらいしかない雀なのに、この一瞬のいのちの火花でした。

[東方最大離角]暁闇。病院はまだ常夜灯。ふと気がつくと、ベッドのそばに若い看護婦が立っている。「水星が見えるわよ」。半身を起こすと、すこしあかるくなった東の地平線上に水星、かなり離れて見まちがえようのない金星。夜勤の多い看護婦は星空がともだちなんだな。名前も聞かなかったが、忘れられないひととき。

[赤い満月]湿った空気が海から流れこんで、もやっとした深夜。頭上の満月が赤い。前方を猫が横切る。車道へ行っちゃだめだよ。無灯火の自転車で歩道を飛ばしていく女の子。測量会社の2階だけがまだ点灯している。コンビニの外でしゃがみこんでいるおばさん。区役所の時計台は長い間バックライトが切れたまま。

[対位法]けさのNHK・FM「古楽の楽しみ」は、関根敏子さんの「16、17世紀フランスの楽器と音楽」3日目でヴィオール特集。このおだやかなヒーリング系の音で、おなじ楽器でも、なんとか4声が識別できる。ふとおもうのだが、私が必死になって聞き分けようとしている多声の音楽を、当時の人たちはやすやすとリラックスして聞いていたのだろうか。人間の音声分解能力が変わってきたのだろうか。いつかみたグレン・グールドの映画で、グールドが、うるさいカフェで耳を澄ませて、まわりの会話を聞き分けようとしていたシーンをおもいだす。バッハ「音楽の捧げ物」6声のリチェルカーレを聴きながら指で数えているのだが、4声までしかわからない。楽器を指定してないのだから、6声を別々の楽器でやってくれたらいいのにな。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、オーボエ、ファゴット、通奏低音としてはモダン・ピアノがいい。自称大王に変な楽器でテストされたバッハの意趣晴らしにもなるしね。

[聴き比べ]就職して7年間、家電の営業をやっていた。いちばん情熱をこめて売ったのはステレオだった。当社はオーディオのイメージが劣るので、私のアイデアで聴き比べキャラバンを始めた。小型トラックに当社モデルとライバル数社の同等モデルを積んでいって、土地の集会所に並べ、全部をカーテンで隠して、集まってきた人たちの前で同じ曲を大音量で鳴らす。どれがいいかアンケートをとり、そのあとでカーテンを外す。細工は全くしていないので、当社が勝つ保証はない。ただ、有利と思える曲をあらかじめ選曲しておく。選んだのはベートーベンの交響曲第9番第1楽章とアニマルズの「朝日のあたる家」。ダイナミック・レンジのいい当社がおおむね勝ったが、率直に負けを認めることもあった(かえって好意をもたれたと、後で担当の電器屋から報告があった)。木賃宿に泊まりながら関東甲信越を1か月巡業して帰ってきたら体重が5キロ減っていた。

[深夜]むかしドイツ語で読んだ本。老人が、毎夜、窓際の安楽椅子に座って、銃を膝に外の菜園を見ている。キャベツを食べにくる兎を撃つのだ。ある夜、闇の中から1人の男が現れ、挨拶しただけで姿を消す。戦争に行って行方不明になっていた知人だ。翌朝彼の家に行くと、奥さんがそんなことは知らないという。

[波除地蔵]冬の午前4時、真っ暗な路地でいつも出会って挨拶を交わす人たち。体の不自由そうな老女とその娘さん。2人は路地の突き当たりにある小さな祠へ入っていく。これは「波除地蔵」といって、このへんが一面の遠浅だったころからあるそうだ。2人は何年ものあいだ、毎日、日の出前に地蔵を拝んでいる。

[波除地蔵2]夜明け前、ひさしぶりに波除地蔵の前を通る。前方の暗闇の中から老女があらわれる。「おはようございます」。声に元気がない。足を引きずって地蔵のほうへいく。ひとりである。いつもかならずいっしょだった娘はどうしたの? 病気? それともお嫁に行ったの? 夜道をひとりで歩くのはさびしいよね。

[白人娘]真冬の午前4時、歩いてきた人影が立ち止まる。「葛西はどういくのですか?」とスキーウエアの白人娘。「この道をまっすぐだけれど、1時間はかかる」「ありがとう」と歩き出す。気になってそのまま見送る。1km先で、同方向へ走っていったタクシーが止まる。ああよかった。歩くのをあきらめたな。

[ピアノ]大学も3年に進学して、いままでいた駒場寮の10人部屋(柔道部の部室)を追い出され、西千葉寮に移った。こちらは築50年木造の旧兵舎とはいうものの、いちおう個室で、東京まで1時間半もかかる(当時)ので、バイト以外では上京せず、まことに優雅な勉強の環境だった。食堂の隅に先輩が置き去りにしていった古い縦型のピアノがあった。いま思うと、たまにだれかが自費で調律させていたらしく、音程は正確だった。いろいろな教則本もピアノの上に置いてあった。べつに許可は要らなかった市、いつも空いていたので、好きなときにだれでも弾けた。子供のときバイオリンとビオラをやっていたので音符は読めた。砂漠で水にありついたように、バイエルを1週間で終えて、待望のバッハ「インベンション」を1曲1曲ていねいに弾いた。両耳で各声部が聞き分けられるようになったのに、3声の「シンフォニア」が終わったところで卒業になって、また追い出された。

[未完成交響曲]いまFMでシューベルトの未完成交響曲を聴いています。たぶんだれでも知っているでしょうが、おなじ題名の映画があるのです。むかしのことなので俳優も監督も忘れてしまいましたが、何回も観ました。シューベルトが村の居酒屋で酔いつぶれているところへ村娘に扮したエステルハージィの姫君が現われる、ふたりがあかるい麦畑のまん中で抱き合う(風で麦の穂がなびいている)、もちろんふたりの恋が実るわけはないので、シューベルトが書きかけの楽譜を破って、「わが恋の終わらざるごとく、この曲もまた終わらざるべし」(名訳)と書く、傷心のシューベルトが歩く村道の小さな祠に祭られたマリア像――そこで流れるアベマリア。すべてのシーンが白黒でまぶたのうらに焼き付いています。何回目かを、ちょうど4-5歳だった息子と観たのですが、彼いわく「僕だったら行って文句言ってやるのに」。おやじいわく「その気持ち、大人になっても忘れるなよ」。

[夢001海岸]そこは海岸にある温泉町。海岸に向かって傾斜するなだらかな台地が、海岸すれすれで段丘が切れ、そのまま白い砂浜に続いている。私と妻は山の手にある別荘を買った。土地に慣れておこうと徒歩で海岸を目指す。妻とは別のコースをとり、海岸ちかくのバス停で待ち合わせることになっている。道中は古い木造の家々が密集するさびしい町並みで、錆びた「孫太郎虫」の看板がある。地下に温泉が流れているらしく、雑貨店の地下に公衆浴場がある。ちょっと覗いてみると、はるか下方に暗い浴場があり、数人の男女が立ったり座ったりしている。海岸は小高くなった段丘が草で覆われ、その手前に道があるのだが、ときには海岸が迫って、段丘より水面が高くなっているところがある。先を急ぐ。海岸は巨大なコンクリート造りの多層構造物(単一の建築物ではなく、モヘンジョ・ダロの遺跡のように通路や石塀の集合体――それとも戦時中作られた海岸要塞の廃墟?――それとも未完成のまま放棄されたリゾート・ホテル?)で覆われれ、3次元の迷路になっている。壁に地図が貼ってあるが、側面図だけなので全貌がわからない。最上層の道だけがバス停に続くらしい。急いで歩いてきて汗ばんできたので浴場を探すが見当たらない。

[夢002LAロサンゼルスの下町。弁護士たちと車で通りかかるとストリートに人だかりしている。「なんだろう?」ちょっと通り過ぎてから戻って、階段に腰かけている娘さんに聞くと、なにか政治のキャンペーンらしい。まわり中ほとんどが若者で、動くこともできない。そのうち弁護士たちとはぐれて、集会が終わって人が散ったあとだれも知った顔がない。しかたがないのでホテルのある北方に向かって歩き出す。ちょっと側道に入ると、そこは小川が流れ、タンポポが咲き乱れる田舎道で、韓国人の女が数人立って、長い白ひげの導師から説教を聞いている。私が通りかかるとパンフレットを渡されるが、ハングルで読めないので丁重に返す。大通りに戻ると角に1階の駐車場を白布で仕切ったところがあって、「12羽のあひるレストラン」と書いてある。それがいかにおいしいかを、男の流ちょうな日本語でアナウンスしている。大通り向かい側は大きいな灰茶色の殺風景なビルで、1階正面の壁に漢字で「書画骨董直売所」と書いてある。私はまだ歩いている。

[夢003ファム・ファタール]シカゴ大のキャンパスは学園祭で大混雑。宿舎のインターナショナル・ハウスを出て見物にゆく。ハウス新入りの日本人の女の子が、心細そうなようすでなんとなくついてくる。中央広場で大道芸をやっているが、大柄な米国人の人垣でなにもみえない。女の子がかなしそうなので、両肘をかかえあげて肩車する。一瞬ためらったが、すぐ両脚で首を挟んでくる。人ごみに押されてキャンパスの外にでてしまう。外周道路を通ってハウスへ帰ろうとするが、道がくねっていて、大学のある城山からしだいに下っていく。城山から流れくだるほそい渓谷の出口に小さい家があって、母子が流れで遊んでいる。やがてひとけのない住宅街にでる。フランク・ロイド・ライト設計の家が何軒も並ぶ。街路のかなたに城山がみえる。かなり離れてしまったのだ。「すぐタクシーみつけるから心配ないよ」というと、女の子はうなずいている。タクシーはなかなかみつからない。これはほんとにみた夢だが、いろいろな象徴がある。女を「船乗りシンドバッド」にでてくる「海の老人」とおなじにみている(フェミニストは怒るだろうが、これが男女の宿命なんだよな)。道に迷ってあせるのはカフカ「城」の一場面だ。

[夢004拒絶]東京駅の京橋口から入ってすぐ地下に降りると映画館がある。昔からあって、ときにはアダルト館になったりしたものだが、いまは欧州主体の名画座である。新式の機械を入れたので、映画館の従業員はただひとり、私たちの娘である。大地震の日、娘の身を気遣って妻とふたりで見舞いに行く。電車もバスの止まっているので徒歩で行く。病身の妻はわたしの腕にすがって歩く。それでも片道40分ぐらい。駅の外観は特に大きな被害はなく、ちょっとほっとしながらも、映画館へ降りて窓口から覗く。事務所兼機械室のとなりが娘の住居になっていて、ビルの地下とあって天井にダクトが這っているなど殺風景な部屋であるが、さすがに妻の娘だけあって、壁に手編みのアップリケが下がっていたりして、心の豊かさがむしろ痛々しい。窓口から状況を尋ねると、座り込んでいた娘が暗い眼で見上げて、「大丈夫。放っておいて」という。私と組んでいた妻の腕がかすかにこわばる。「なにかあったら遠慮なく言ってこいよ」といって帰る。

[夢005]船橋漁港にきている。岸壁から見下ろす海は透明で、小魚や小蛸がたくさん泳いでいる。水中眼鏡をかけた子供たちが、小蛸を手でつかまえている。何かの輪に釣り針をたくさんつけた罠が浮いている。私と一緒にいる誰かがつぶやく。「港に流れ込む川の水がきれいな水ね」。水はきれいだが海藻が浮いていてそれほどきれいには見えない。なぜ船橋へ来ているかというと、地裁支所で地元やくざの親分の裁判が行われていて、私はそれを傍聴している。というのは、親分の息子3人(やくざではないらしい)が、京都の平田家の3人娘(実在しない)とトリプル縁談があるというのだ。息子たちの1人が挨拶に来る。のっぺり顔に小太りのお公家様タイプ。結婚式のあいさつについてアドバイスを求めてくる。まだ早いんじゃないの?

[夢006水1]妻とふたりの子供をつれて、江戸川と中川の合流点にできた細長い中州を歩いている。足元は葦を根もとから刈り取った湿地、ふたつの川は増水して急流になっている。それぞれ個性があって、江戸川の波は中州の岸にあたって跳ね返り、下流に向かって斜めの白い平行線がくっきり、中川は青黒く渦巻いている。水面がますます上がってくるので先を急ぐ。葛西大橋につながる階段を上って東に降りると、そこは江戸川区のディープ下町で、木造のしもた屋が無秩序に密集して(といっても下町らしく清潔)見通しが利かない。露地で洗濯していたおばさんに道を聞くと、「今日はよく道を聞かれるわ」といってあかるい葛西街道の方向を示してくれる。
 [水2]有楽町から丸の内に向かう。途中にちょっとした水路があり、橋までの遠回りを嫌って渡渉することにする。子供がひとり先行していて肩まで水没している。渡っていくと、水路に合流してくる黒くて速い水流を横切る。いやだな。岸にいた男が「埼玉鬼怒川の水だよ」という。

[記憶001(小名浜)]中学に入った孫の日常をみながら、その年齢の自分がどうだったかを思い出そうとしている(なんの役にも立たない−−むしろ有害であることを承知で)。ほとんど見通しのきかない深い霧の中からとつぜん見えた情景。ある朝、坊主頭の私が庭の生垣のそばになんとなく立っていると、となりの家からそこの嫁さん(それまで言葉を交わしたこともなかった)が菜っぱ畑のあいだを歩いてきて、生垣越しに私に声をかける。 「昨夜、〇〇(こどもの名前)が亡くなりました。お世話さまになりました」。一礼して引き返す。眼を真っ赤に泣き腫らしている。私は声もなく立ちすくむ。〇〇ちゃんは覚えている。1歳半ぐらいだったか。よちよち歩きで、この土地の貧しさ相応の粗末な身なり、目やにや洟で汚れた顔だが、外で会ったとき、しゃがんで頭を撫でてやったことがある(当時はいまほど警戒されなかった)。「かわいいね」ぐらい言ったかどうか。この嫁さんは戦後食糧難の東京から流れてきた人らしい。いま思うと山の手風の折り目正しい言葉使いで、このへんのがさつなおばさんたちの人気はなかったようだ。悲しみの報告も、おとなたちではなく、たまたま目についた私にしたところから見ても、婚家や近所では孤立していたのだろう。異境でこどもを亡くしてどんなに悲しかったか。70年たったいま、私は、あの涙に濡れた頬を思い出している。